たが、東京へ出してもらいたいために、親たちに厭《いや》がられるようにしたのではないかとさえ思った。小説が書けないということと、恋心というものが、そんなに悪《あく》どい苦しみだとは、孝子には察しもつかなかったが、桜津が自分への思慕《しぼ》だと、思いちがいをした、長恨歌の、夕殿蛍飛思悄然という句を選みだしたということには、そんなものかなあという、仄《ほのか》な、ほんのりとした、くゆりを、思いしみないでもなかった。
「だけど、あなた、山田さんと結婚する?」
「そんなこと、考えてもいないわ。」
そうはいっても、錦子は悩ましげだった。
「小説書いて、独立出来る?」
「だから、あたし、医学終業という題のは、そう思って出京した娘が、女義太夫になってしまうことに書いて見たの。」
ふと、二人の眼のなかには、桜の花と呼ばれた娘義太夫の竹本綾之助《たけもとあやのすけ》や、藤の花の越子《こしこ》や、桃の花の小土佐《こどさ》が乗っている人力車の、車輪や泥除《どろよ》けに取りついたり、後押《あとおし》をしたりして、懸持《かけも》ちの席亭《せき》から席亭へと、御神輿《おみこし》のように、人力車を担《かつ》いでゆくようにする、贔屓《ひいき》の書生たちが、席へ陣取ると、前にいっている仲間と一緒になって、下足札《げそくふだ》で煙草盆を叩《たた》いて、三味線にあわせて調子をとり、綾之助なら綾之助が、さわりのところで首を振ると、ドウスルドウスルと叫ぶという、女芸人たちの、ばからしいほどな、素晴らしい人気を思いうかべてもいた。
「でも、あたし、どうしても、やって見るつもりなの。」
錦子は自分の胸に、たしかめるように、噛《か》みしめるように言っているのが、孝子には悲しくきかれた。
「女がなんかしていこうっての、きっと、厭なことも多いでしょうよ。どんな厭なことでも、忍耐《がまん》出来る?」
「どんなことだって、堪えるわ。」
その時、そうは言いきった錦子だったけれど、美妙斎との交渉が深まってくると、堪えきれないことが沢山あった。
おとなしい錦子が、書くものや、上《うわ》っ面《つら》だけではあろうが、なんとなく莫蓮《ばくれん》になって来た。美妙斎の影響だと、孝子は思わないではいられなかった。
「あたしの写真をね、どうしてそんな場所《ところ》へもってらっしゃったのか、芸妓《げいしゃ》が拾ってね、あてつけだっ
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