るって言うんですもの――」
「絵がなの?」
 孝子が問いかえしたことは、それは、女生徒の間にも、女教師たちの間にも、不言不語《いわずかたらず》に考えられていることなのだ。彼女が描く絵はとにかくとして、出京当時にくらべると、びっくりするほど急に女づくって、毎日々々綺麗になってゆくのが、目に立つのだった。
「あたし、種々《いろいろ》なことを覚えようと思ってるのよ、山田先生に教えて頂いて――」
と、錦子はいった。
「ちょいと、文学者たちって、紅《べに》さまだの、美《よし》さまだのって、手紙に書いてたのね。あたし、紅より、っていう手紙見て、ちょいと怒ったことがあるの。そうしたら、紅葉さんですって。」

 六月の日が照りはじめると、稗蒔屋《ひえまきや》や、風鈴屋や、金魚売、苗売の声が、節《ふし》面白く季節を町に触れ流してゆくようになった。
 本郷台も駿河台も、すっかり青葉になって、お茶の水橋はまっさおな間に、細く白く見えるようになり、下ゆく水は、覗《のぞ》かなければ見えなくなった。夜は、関口《せきぐち》の方から蛍《ほたる》が飛んで来て、時鳥《ほととぎす》も鳴きすぎた。
 その頃、どうかすると美妙が、じりじりしているのを、錦子は見逃《みのが》さなかった。小説は「萩《はぎ》の花妻名誉の一本《ひともと》」を発表してもらえることになっていた。
 そうした日の、ある夕ぐれ、青葉の匂いを嗅《か》いで、そぞろ歩きをしようと、当然帰途は美妙斎におくってもらうつもりで訪《たず》ねると、留守だった。
 賢《かしこ》そうなお母さんが出て来て、まああがれ、まあ上れと進めた。
 美妙斎がお母さん孝行なことは、話をしていてもわかるので、錦子もお母さんの進めに逆らわなかった。
「あなたは、他家へはお出《いで》になられないのでしょうね。御惣領《ごそうりょう》では――」
と、なんとなく、お嫁にゆかれるのかというような、口うらをひかれた。
「お宅は、お妹御《いもとご》さんおひとりですか?」
ともいった。
 錦子は、美妙のお母さんのいう意味を、意識しながら、自分には優しくしてくれる祖母がいるので、大概な願いは叶《かな》うのだというように言った。
 すると、継母ではないのかときかれたので、錦子はどぎまぎした。そんなはずはないとうち消した。
「でもね、財産のあるお家の、家督を捨《すて》て、いくらあなたが物好きでも……
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