日本橋あたり
長谷川時雨

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)價《あたひ》

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(例)※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)くう/\じやく/\
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 その時分、白米の價《あたひ》が、一等米圓に七升一合、三等米七升七合、五等米八升七合。お湯錢が大人《おとな》二錢か一錢五厘といふと、私は、たいした經濟觀念の鋭い小娘であつたやうであるが、お膳の前へ坐ると、頂きますとお辭儀《じぎ》をするし、お終ひになると、御馳走さまといつたり、さうでもないと、默つて一禮して、お膳を下《さ》げてもらうといつた、お行儀はよいが、世の中のことなんにも知らない、空々寂々《くう/\じやく/\》のあんぽんたんであつたのだ。
 しかし未曾有の國難、大國支那と戰ひがはじまるかも知れないといふ空氣は、店藏《みせくら》ばかりに圍まれてゐる問屋町《とんやまち》の、日本橋區内の、およそ政治には縁の遠い、深窓《しんさう》とまで大家《たいけ》ぶらないでも、世の中のことを明白には知らせて貰へなかつた娘たちにも、なんともいへない大變なことだと思つてゐたのはたしかだ。
「支那つてこんなに大きいんだわね。」
 女の學問を極度にきらつて、女學校にやられない小娘たちは、藏の二階の隅から、圓い地球儀を持出して來て、溜息をついた。彼女たちが幼少だつたころの父の机の上には、その地球儀があつたのだ。孔雀の羽根の長いのが筆立《ふでたて》に一本さしてもあつた。
 私たちが地球儀を見て、今更に支那を大國《たいこく》と思つたばかりではない、大人たちもさう言つてゐた。後できけば、日本に負けたのでメツキが剥げてしまつたのだが、世界中でさう思つてゐたのださうだ。それにしても私たちが聞きかじつてゐる明治以前の文明は、みんな、唐《たう》や明《みん》を通してきてゐるものだけに、私たちにはわからないから、ただ、ボヤツと驚いた。
 でも、どうも、私の記憶ちがひでなければ負けるつていふ氣はしなかつたやうだ。負けてたまるものかつていふ氣概《きがい》は持つてゐた。敵國人だからといつて、急に憎らしいといふ氣もしなかつた。
 なにしろ、當時、知識人の間には、社交界の人たちや、先見の明ある人たちが、派手《はで》と地味《ぢみ》に歐風を學んでゐたが、急風潮だつた歐風の、鹿鳴館時代の反動もあつて、漢詩をやつたり、煎茶が流行《はや》つたりして、道具類も支那式のものが客間に多く竝べられてゐるし、支那人の物賣りが何處の家へもはいつて來てゐた。
 支那人の行商人は、南京玉《なんきんだま》から、小間物、指輪、反物まで擔いできて、
「女中さん、これ安いよ。」
 なんかと安物を賣りつけるのから、横濱の林《りん》といふ大きな呉服やは、立派なものを置いてゆくのだつた。
 私の七ツ八ツから十歳ぐらゐまでは、南京繻子《ナンキンじゆす》を縞繻子《しまじゆす》の帶にしてゐた。おとなも締めたのかも知れないが、私はわたしのことばかり覺えてゐる。横濱生れの朱弦舍濱子《しゆげんしやはまこ》も、私もさうだつたと言つてゐた。おとなは今のやうに丸帶《まるおび》ははやらない、丸帶《まるおび》はよつぽど大よそゆき――つまり儀式ばつた時にばかり用ふるので、片側帶《かたかはおび》があたりまへだつたから、腹合《はらあは》せの片側《かたがは》の上等品は、唐繻子《たうじゆす》だつた。
 私はいとけない時、芝の神明樣《しんめいさま》の祭禮《おまつり》の歸途《かへり》に、京橋の松田といふ料理店《おちやや》で、支那人の人浚《ひとさらひ》に目をつけられたとかで、祖母と供の者を吃驚させたことがあるが、むやみやたらと敵愾心を煽つて、チヤンコロをやつつけろと罵るのをきくと、あんなに言はないでもと思ひながら、氣味の惡い奴等もゐなくなるだらうとも思つてゐた。全く現今《いま》では想像のつかないほど、横濱の南京町《ナンキンまち》など不氣味な場所《ところ》だつたやうだ。
 戰爭劇も澤山あつたが、私は明治座でやつた、先代《せんだい》左團次《さだんじ》と秀調《しうてう》の夫婦別れを思出す。これは際物《きはもの》ではあつても、チヤンとしたものだと思つてゐる。たしか、築地あたりに住む、退去しなければならない支那商人と、日本人の妻との離別のやるせなさを書いたもので、善良な支那人の呉服行商人夫妻をとりあつかつたものであつたが、左團次《さだんじ》の熱演と、秀調《しうてう》の好技とともに、よい印象を與へてくれた。
 それはさておき、私のうちの一脈《いちみやく》は、開戰と同時に皆がムヅムヅムヅとして來たやうだつた。それは、好戰國民などといつてもらひたくない、哀れな江戸ツ子の血潮のたぎりだととつてやりたい。廿七年來、誠に融通のきかなかつた舊幕人たちが、しかも尾羽《をは》打《う》ち枯らした連中が刀を貰ひにくるのだ。
「さうはないよ、おれも拂つちやつたよ。」
 と生涯寢床の下に愛刀をはさんで、柄頭《つかがしら》を枕にならべてゐた人だけに、父は武人の心がけを忘れずといつた顏で、幾振《いくふり》かを出して見せてゐる。
「おれにしたつてさうだが、君方《きみがた》が持つたところで仕方がない、戰に行く人に餞別にやる。」
「いや、かかる折こそだ。名は人夫《にんぷ》でもなんでも好い、戰地へ行つて働きたい。」
 大義名分が、彼等を、舊幕臣として働かせず、といつて、榎本武揚や勝安房のやうな勝《すぐ》れた人物《ひと》でもなかつた彼等は、すつかり打ちのめされて、消耗しきつてしまつた維新後の廿七年を、今こそと腕をまくりあげて來は來ても、窮乏陋巷にある彼等は、人夫にも跳ねられさうに痩せてゐた。
 だが、そのなかの幾人かが、高知の士族で、紙幣局の役人から失職した人を頭《かしら》にして、盲人縞仕立《めくらじまじたて》の服裝で、車夫《くるまや》さんやなにかと一緒に人夫に採用された。この高知縣士族は、後に臺灣征伐にも※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて、そして臺灣に居著いて、女房子も呼んで、古道具と質商になつて、晩年になつて歸つて來た。
 宣戰布告になつた日は、六月ごろの晝間、私の家は大通りでないので、いつも人通りのそんなにないのに、ドタドタと地響きがするほど、下駄の音が流れていつた。あとからもあとからも、ひつきりなしに續くのだが、火事でもない樣子――火事のやうに陽氣でないので、門の外に出て見ると、みんな交番――巡査派出所の方へなだれて行くのだつた。そこには、宣戰の大書《たいしよ》した張紙と、それはうろ覺えだが、召集の心得が赤インキで上に線がして貼つてあつたかと思ふ。
 胸がわくわくして、板のやうになつたのか、讀んで歸つて行くものは、駈けてくるものより無言だつた。召集を目の前に思ふ女《ひと》だらう、うつむいてゆくものに、鰹節を持たせてやると、どんな時にも噛つて、飢が凌げると慰めるやうに言つてゐる者もあつた。家へ歸つてその事をいふと、家でも、祖母も母も、身寄りに、出征する人もないのに、なんとなくざわざわしてゐた。
やがて、
「熊本では、梅干が一升一錢だつたといふほど安かつたのに、二錢七厘に上つたつて新聞に出てゐます。」
 勝男節《かつをぶし》だの、梅干だの、澤庵だのと、戰地の食《たべ》もののことを女たちは氣にして話しだすやうになつてゐた。
 するとある日、藏座敷《くらざしき》で私が何かしてゐるとき、お糸さんが、妙に言出しにくさうにして、四邊《あたり》をはばかりながら傍に寄つて來た。お糸さんは母の末の妹で、御維新の時生れて間がなかつたから、微祿《びろく》した舊幕臣の娘に育つて、おまけに私の母方《はゝかた》の祖父は、私の書いた「舊聞日本橋《きうぶんにほんばし》」の中に、木魚《もくぎよ》の顏と題したほど、チンチクリンのお出額《でこ》なのだが、そつくりそのまま似て生れてしまつてゐる果敢《はか》ない女性《ひと》だつた。なまじひに良すぎるほど毛がよくつて、押出さないでも鬢たぼがふつくらと、雲鬢《うんびん》とでもいふ形容をしてもよいのだらうと思ふほどであつた。
 彼女は、下谷青石横丁《したやあをいしよこちやう》の、晝間も大きな蟇《ひきがへる》が出て來て蚊を吸つてゐるやうな、古い庭のある、眞つ暗な家に祖母と二人住んでゐて、硫黄仙人《いわうせんにん》とあだなされる、年中硫黄の出る山を探し歩いて歸つて來ない祖父の留守を、輸出の絹手巾の刺繍や縁縫《ふちぬ》ひをして、生活の足しにして娘盛りを過してしまつたが、羽二重の工場をもつてゐるといふ埼玉だか茨城だかの資本主が、宿屋は厭だからと頼みこんで來て、そのあとで結婚を申込まれた。田舍へ伴なはれてゆくと、豪農には違ひないが、工女を追ひ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]してゐるのは細君で、息子もあるといふのが分つた。しかも、身重になつてしまつたといふ落度《おちど》があつたので、私の家にゐても姉の私の母へは遠慮がちだつた。
「おやつちやん、あたしは――」
 と、お糸さんはちよつぽりと、お出額《でこ》の下の小さな眼に雫《しづく》をうかべて、
「あたしは、看護婦になつて行きたいと思ふんですけど、姉さんには言へないし――」
 生意氣にもあたしは、おお尤《もつとも》だと思つた。姪や甥の乳母のやうに、抱いたり背負つたりして暮してゐる彼女を、日頃いとしいと思つてゐたので、
「あたしだつてなりたいものね。」
 と勇氣づけてやつた。三十にもならうとするお糸さんは、年齡《とし》の半分も下の姪から愛情をいつも受けてゐた。その時も、糠星《ぬかぼし》のやうな眼に、急に火が點《とぼ》つて、
「ぢやあ、赤十字社の看護婦規則書を貰つて、手續きをきいて來ますわ。けれど、好いでせうかね。」
 お糸さんは言つた。あたしのほかに、仕立屋のおまんちやんも、それから誰とかさんもさういつてゐると――その女《ひと》たちもよくは知らなかつたが、可哀さうな境遇な女《ひと》たちだつた。彼女たちは自分の立場をはつきりと知つて、有甲斐《ありがひ》のない身を御用に立てたいと、愼しみ深い底の情熱を示しだしたのだ。
 妹と娘とが、そんな示し合せをしたことを母は知らなかつた。お糸さんは八端《はつたん》のねんねこで、母の祕藏ツ子だつた弟をおぶつて買もののやうなふりをして出かけた。

 新聞の號外は出たが――號外のはじまりかもしれない――寫眞版はない。繪はがき屋さへまだなかつた。新版繪雙紙《しんばんゑざうし》が出ると、早速に人だかりだ。
 私のうちは、なかなか私たちを外へ出してはくれない。嚴しすぎるしつけかただから、實に世間の景況がわからなかつた。新聞や、來る人の口から聞くだけで、私の知りたい慾は實にもの足らなかつた。だが、この繪雙紙《ゑざうし》だけは、私が買ひにゆくことを許された。父は、すこしばかり繪を描くので、閑があれば夜でも自分で見にいつたが、家業のほかに公報義會《こうはうぎくわい》とかなんとか、戰勝の祝賀や弔慰などに顏を出すことが忙しくなつてゆくので、おなじ版畫でも、筆者や、圖柄《づがら》や、摺りの好いのを自分で選つてゐられないので、大概間違ひがないといふので、適當に買ふことを私にまかせてくれた。
 ある宵、安城渡《あんじやうと》の、松崎大尉の繪のよいのが出たといふので、おなじ圖柄《づがら》のは、幾組か求めてはあるが、父に褒められようと思つて、薄雨《うすさめ》のするなかを、傘を背に傾けて、店一ぱいに三枚つづきや四枚つづきの戰爭繪を吊り下げた、繪雙紙屋《ゑざうしや》の前に立つてゐた。淺草行の鐵道馬車のレールが雨に濡れて白く、繪雙紙屋《ゑざうしや》の店さきに人立ちがないので、皓々《こう/\》とした洋燈《らんぷ》の光りが、レールに流れてゐた。
 私は探海燈で、海底《うみのそこ》を照してゐる軍艦の繪を見てゐると、
「ああ、ここに居た、おやつちやん。」

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