と、追つかけてきたお糸さんが傘のなかでシクシク泣いてゐる。失敗したのかなあと、あれつきり話をきくことが出來なかつた、赤十字社の看護婦のことをきいた。
「いけなかつたの。」
「おたきさんが、もつとよくお考へつて――」
おたきさんは私の母の名だ。
「規則書は貰つたの。」
お糸さんはこつくりと頷《うなづ》いた。そして雄辯に言つた。
「行きましたともさ、すぐに行つて種々《いろ/\》聽いてきたの。今日もちよつと行つて來たのですの。あなたは、まだ年少《ちひ》さいから駄目なのよ。あたくしはね、直《すぐ》にあちらへ行くといふ譯には行きませんけれど、どうにか、看護婦志願は出來るのですけれど――」
私は、年少《ねんせう》でもあらう、けれど、私は母にも誰にも言ひはしないが、胸が痛んでゐるのだつた。だから駄目であらうとは覺悟してゐる。お糸さんの目的を叶へさせたいので、一緒にといつたのだつた。
「そんなわからないこといつて、お母《つか》さん。」
さうはいふが、八釜《やかま》しい姑をもつて、その姑より嚴しくやかましい母を私はよく知つてゐたから、
「今、すぐと言はないでね。」
なんかと、叔母を慰めながら歸つた。
――おおなんと、それから長い長い月日が流れたか。松崎中佐といふ、見上げるやうな大きな、容貌魁偉の軍人さんにお逢ひしたのは近年だ。その方が、安城渡《あんじやうと》の激戰に戰死された松崎大尉の遺孤《ゐこ》だつたのだ。私はその時、購《あがな》つた繪雙紙《ゑざうし》をもつてゐたので差上げたらば、大層よろこばれて、自宅《うち》にはなかつたので、母が――松崎大尉未亡人が非常によろこび、懷しがつたとお禮を申された。
松崎大尉が陸軍で一番最初の戰死だつたやうに覺えてゐる。安城川《あんじやうがは》を渡るのに、連日の霖雨で水嵩がまして、淺いところでも頸《くび》に達したのを、大尉が劒を翳して先頭に立つて渡つた。前隊が行き過ぎたころ、伏兵が後隊との間に現はれ、大尉の憤戰死鬪は敵を潰走せしめたが、終にそこに戰死をされたのだつた。
連戰連勝だが、身の引き緊るやうな話も幾度かきいた。連戰連勝つたつて、ただ幸運でそこまで行くものではないといふ教へを、たしかに心にうけた。
東京では祝賀會に、豚の据物斬《すゑものぎり》をして、豚汁をつくり、祝酒《いはひざけ》を飮むことが多かつた。父は豚の据物斬《すゑものぎ》りが自慢だつたが、そんな時の父を、私はあんまり好かない。
世界大戰の時の、ドイツの女性はいふまでもない。今日の日本でも、女性の任務がどんなに重いかを覺悟しなければならない時、私はお糸さんを妙に思ひ出すのだ。あの女《ひと》は不幸《ふしあはせ》な一生で死んでしまつたが、私はあの女《ひと》が志望を遂《と》げてゐたらば、立派な働きをしてゐたであらうと思つて、勿體《もつたい》ないことをしたと思つてゐる。
大本營を廣島にまで進められたこの戰爭と一緒に忘れないのは、戰爭中に年が明けた廿八年の一月には、文藝倶樂部や太陽や、少年世界も同時に發行され、帝國文學の創刊もあつた。私が、一葉女史の「たけくらべ」をないしよで買ひもとめるのに、たけくらべ、竹くらべ、背丈《たけ》くらべ、などと、ありつたけの當字《あてじ》を書いて、探しにやつたのもそれからぢきのことであつた。
[#地から2字上げ](「オール讀物」昭和十二年十月一日)
底本:「桃」中央公論社
1939(昭和14)年2月10日発行
初出:「オール讀物」
1937(昭和12)年10月1日
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年1月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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