たて》の服裝で、車夫《くるまや》さんやなにかと一緒に人夫に採用された。この高知縣士族は、後に臺灣征伐にも※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて、そして臺灣に居著いて、女房子も呼んで、古道具と質商になつて、晩年になつて歸つて來た。
宣戰布告になつた日は、六月ごろの晝間、私の家は大通りでないので、いつも人通りのそんなにないのに、ドタドタと地響きがするほど、下駄の音が流れていつた。あとからもあとからも、ひつきりなしに續くのだが、火事でもない樣子――火事のやうに陽氣でないので、門の外に出て見ると、みんな交番――巡査派出所の方へなだれて行くのだつた。そこには、宣戰の大書《たいしよ》した張紙と、それはうろ覺えだが、召集の心得が赤インキで上に線がして貼つてあつたかと思ふ。
胸がわくわくして、板のやうになつたのか、讀んで歸つて行くものは、駈けてくるものより無言だつた。召集を目の前に思ふ女《ひと》だらう、うつむいてゆくものに、鰹節を持たせてやると、どんな時にも噛つて、飢が凌げると慰めるやうに言つてゐる者もあつた。家へ歸つてその事をいふと、家でも、祖母も母も、身寄りに、出征する人もないのに、な
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