ろ、當時、知識人の間には、社交界の人たちや、先見の明ある人たちが、派手《はで》と地味《ぢみ》に歐風を學んでゐたが、急風潮だつた歐風の、鹿鳴館時代の反動もあつて、漢詩をやつたり、煎茶が流行《はや》つたりして、道具類も支那式のものが客間に多く竝べられてゐるし、支那人の物賣りが何處の家へもはいつて來てゐた。
 支那人の行商人は、南京玉《なんきんだま》から、小間物、指輪、反物まで擔いできて、
「女中さん、これ安いよ。」
 なんかと安物を賣りつけるのから、横濱の林《りん》といふ大きな呉服やは、立派なものを置いてゆくのだつた。
 私の七ツ八ツから十歳ぐらゐまでは、南京繻子《ナンキンじゆす》を縞繻子《しまじゆす》の帶にしてゐた。おとなも締めたのかも知れないが、私はわたしのことばかり覺えてゐる。横濱生れの朱弦舍濱子《しゆげんしやはまこ》も、私もさうだつたと言つてゐた。おとなは今のやうに丸帶《まるおび》ははやらない、丸帶《まるおび》はよつぽど大よそゆき――つまり儀式ばつた時にばかり用ふるので、片側帶《かたかはおび》があたりまへだつたから、腹合《はらあは》せの片側《かたがは》の上等品は、唐繻子《たうじゆす
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