んとなくざわざわしてゐた。
やがて、
「熊本では、梅干が一升一錢だつたといふほど安かつたのに、二錢七厘に上つたつて新聞に出てゐます。」
勝男節《かつをぶし》だの、梅干だの、澤庵だのと、戰地の食《たべ》もののことを女たちは氣にして話しだすやうになつてゐた。
するとある日、藏座敷《くらざしき》で私が何かしてゐるとき、お糸さんが、妙に言出しにくさうにして、四邊《あたり》をはばかりながら傍に寄つて來た。お糸さんは母の末の妹で、御維新の時生れて間がなかつたから、微祿《びろく》した舊幕臣の娘に育つて、おまけに私の母方《はゝかた》の祖父は、私の書いた「舊聞日本橋《きうぶんにほんばし》」の中に、木魚《もくぎよ》の顏と題したほど、チンチクリンのお出額《でこ》なのだが、そつくりそのまま似て生れてしまつてゐる果敢《はか》ない女性《ひと》だつた。なまじひに良すぎるほど毛がよくつて、押出さないでも鬢たぼがふつくらと、雲鬢《うんびん》とでもいふ形容をしてもよいのだらうと思ふほどであつた。
彼女は、下谷青石横丁《したやあをいしよこちやう》の、晝間も大きな蟇《ひきがへる》が出て來て蚊を吸つてゐるやうな、古い庭のある、眞つ暗な家に祖母と二人住んでゐて、硫黄仙人《いわうせんにん》とあだなされる、年中硫黄の出る山を探し歩いて歸つて來ない祖父の留守を、輸出の絹手巾の刺繍や縁縫《ふちぬ》ひをして、生活の足しにして娘盛りを過してしまつたが、羽二重の工場をもつてゐるといふ埼玉だか茨城だかの資本主が、宿屋は厭だからと頼みこんで來て、そのあとで結婚を申込まれた。田舍へ伴なはれてゆくと、豪農には違ひないが、工女を追ひ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]してゐるのは細君で、息子もあるといふのが分つた。しかも、身重になつてしまつたといふ落度《おちど》があつたので、私の家にゐても姉の私の母へは遠慮がちだつた。
「おやつちやん、あたしは――」
と、お糸さんはちよつぽりと、お出額《でこ》の下の小さな眼に雫《しづく》をうかべて、
「あたしは、看護婦になつて行きたいと思ふんですけど、姉さんには言へないし――」
生意氣にもあたしは、おお尤《もつとも》だと思つた。姪や甥の乳母のやうに、抱いたり背負つたりして暮してゐる彼女を、日頃いとしいと思つてゐたので、
「あたしだつてなりたいものね。」
と勇氣づけてやつた。三十にも
前へ
次へ
全7ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング