して來たやうだつた。それは、好戰國民などといつてもらひたくない、哀れな江戸ツ子の血潮のたぎりだととつてやりたい。廿七年來、誠に融通のきかなかつた舊幕人たちが、しかも尾羽《をは》打《う》ち枯らした連中が刀を貰ひにくるのだ。
「さうはないよ、おれも拂つちやつたよ。」
と生涯寢床の下に愛刀をはさんで、柄頭《つかがしら》を枕にならべてゐた人だけに、父は武人の心がけを忘れずといつた顏で、幾振《いくふり》かを出して見せてゐる。
「おれにしたつてさうだが、君方《きみがた》が持つたところで仕方がない、戰に行く人に餞別にやる。」
「いや、かかる折こそだ。名は人夫《にんぷ》でもなんでも好い、戰地へ行つて働きたい。」
大義名分が、彼等を、舊幕臣として働かせず、といつて、榎本武揚や勝安房のやうな勝《すぐ》れた人物《ひと》でもなかつた彼等は、すつかり打ちのめされて、消耗しきつてしまつた維新後の廿七年を、今こそと腕をまくりあげて來は來ても、窮乏陋巷にある彼等は、人夫にも跳ねられさうに痩せてゐた。
だが、そのなかの幾人かが、高知の士族で、紙幣局の役人から失職した人を頭《かしら》にして、盲人縞仕立《めくらじまじたて》の服裝で、車夫《くるまや》さんやなにかと一緒に人夫に採用された。この高知縣士族は、後に臺灣征伐にも※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて、そして臺灣に居著いて、女房子も呼んで、古道具と質商になつて、晩年になつて歸つて來た。
宣戰布告になつた日は、六月ごろの晝間、私の家は大通りでないので、いつも人通りのそんなにないのに、ドタドタと地響きがするほど、下駄の音が流れていつた。あとからもあとからも、ひつきりなしに續くのだが、火事でもない樣子――火事のやうに陽氣でないので、門の外に出て見ると、みんな交番――巡査派出所の方へなだれて行くのだつた。そこには、宣戰の大書《たいしよ》した張紙と、それはうろ覺えだが、召集の心得が赤インキで上に線がして貼つてあつたかと思ふ。
胸がわくわくして、板のやうになつたのか、讀んで歸つて行くものは、駈けてくるものより無言だつた。召集を目の前に思ふ女《ひと》だらう、うつむいてゆくものに、鰹節を持たせてやると、どんな時にも噛つて、飢が凌げると慰めるやうに言つてゐる者もあつた。家へ歸つてその事をいふと、家でも、祖母も母も、身寄りに、出征する人もないのに、な
前へ
次へ
全7ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング