ろ、當時、知識人の間には、社交界の人たちや、先見の明ある人たちが、派手《はで》と地味《ぢみ》に歐風を學んでゐたが、急風潮だつた歐風の、鹿鳴館時代の反動もあつて、漢詩をやつたり、煎茶が流行《はや》つたりして、道具類も支那式のものが客間に多く竝べられてゐるし、支那人の物賣りが何處の家へもはいつて來てゐた。
支那人の行商人は、南京玉《なんきんだま》から、小間物、指輪、反物まで擔いできて、
「女中さん、これ安いよ。」
なんかと安物を賣りつけるのから、横濱の林《りん》といふ大きな呉服やは、立派なものを置いてゆくのだつた。
私の七ツ八ツから十歳ぐらゐまでは、南京繻子《ナンキンじゆす》を縞繻子《しまじゆす》の帶にしてゐた。おとなも締めたのかも知れないが、私はわたしのことばかり覺えてゐる。横濱生れの朱弦舍濱子《しゆげんしやはまこ》も、私もさうだつたと言つてゐた。おとなは今のやうに丸帶《まるおび》ははやらない、丸帶《まるおび》はよつぽど大よそゆき――つまり儀式ばつた時にばかり用ふるので、片側帶《かたかはおび》があたりまへだつたから、腹合《はらあは》せの片側《かたがは》の上等品は、唐繻子《たうじゆす》だつた。
私はいとけない時、芝の神明樣《しんめいさま》の祭禮《おまつり》の歸途《かへり》に、京橋の松田といふ料理店《おちやや》で、支那人の人浚《ひとさらひ》に目をつけられたとかで、祖母と供の者を吃驚させたことがあるが、むやみやたらと敵愾心を煽つて、チヤンコロをやつつけろと罵るのをきくと、あんなに言はないでもと思ひながら、氣味の惡い奴等もゐなくなるだらうとも思つてゐた。全く現今《いま》では想像のつかないほど、横濱の南京町《ナンキンまち》など不氣味な場所《ところ》だつたやうだ。
戰爭劇も澤山あつたが、私は明治座でやつた、先代《せんだい》左團次《さだんじ》と秀調《しうてう》の夫婦別れを思出す。これは際物《きはもの》ではあつても、チヤンとしたものだと思つてゐる。たしか、築地あたりに住む、退去しなければならない支那商人と、日本人の妻との離別のやるせなさを書いたもので、善良な支那人の呉服行商人夫妻をとりあつかつたものであつたが、左團次《さだんじ》の熱演と、秀調《しうてう》の好技とともに、よい印象を與へてくれた。
それはさておき、私のうちの一脈《いちみやく》は、開戰と同時に皆がムヅムヅムヅと
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