に、りんずう(臨終《りんじう》)のよくをはせしと、尼《あま》がよくあたり、かん病《びやう》せし事《こと》のうれしさ、いつの世《よ》にわするべしともおぼへずとよろこばれ候なり。何よりもおぼつかなきは[#「何よりもおぼつかなきは」に傍点]御所勞《ごしよらう》なり。かまへて、さもと、三年《みとせ》のはじめのごとくに、きうぢ(灸治《きうぢ》)させたまへ。病《やまひ》なき人も無常《むじやう》まぬかれがたし。但《たゞ》し、としのはてにあらず[#「としのはてにあらず」に傍点]法華經《ほけきやう》の行者《ぎやうじや》なり。非業の死[#「非業の死」に傍点]にはあるべからず。
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と諭《さと》されてゐる。これは富木常忍入道《どきじやうにんにふだう》が母の骨《こつ》をもつて、身延にゆき、日蓮上人に母死去のせつ妻の尼御前《あまごぜん》がよく世話したことや、妻が病氣がちだつた事をはなしたので書かれたものと見える。治《ぢ》する病ならば癒《なほ》して、よく[#「よく」に傍点]生きなければいけないといはれてゐるのだ。つぎの「衣食御書《いしよくごしよ》」ととなへられてゐるのを見れば一層その趣意が
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