らせ給歟、たうとし、たうとし。恐々。
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 六月二十七日(弘安元年)
 同二年十二月二十七日は、尼が初春の料《れう》の餅をおくつたと見えて、

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十字(蒸餅《むしもち》)五十まい、くしがき一れん、あめをけ(飴桶《あめをけ》)一、送給畢《おくりたびをはんぬ》。御心ざしさきざきかきつくして、筆もつひゆびもたたぬ。三千世界に七|日《か》ふる雨のかずはかずへつくしてん。十萬世界の大地のちりは知人《しるひと》もありなん。法華經《ほけきやう》一|字《じ》供養の功徳《くどく》は知《しり》がたしとこそ佛《ほとけ》はとかせ給て候《さふら》へ、此《これ》をもて御心あるべし。
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 と禮を述べ、その前月、十一月二日の日附けで、持妙尼御前名宛には、御膳料《ごぜんれう》を送られたので、亡入道殿《なきにふだうどの》(持妙尼の夫)の命日であつたかと、とかう紛《まぎ》れて、打忘れてゐたが、なるほど、そちらでは忘れない筈だと、昔、漢王の使で胡國《ここく》に行つた夫に、十九年も別れてゐた蘇武《そぶ》の妻が、秋になると夫の衣を砧で打つその思ひが、遠く離れてゐた蘇武《そぶ》にきこえたといふことや、陳子《ちんし》は夫婦の別れに鏡を割つて一つづつ取り、妻が夫を忘れたときに鏡の破片が鵲《とり》になつて夫に告げたといふことや、相思《さうし》といふ女が男を戀ひ慕つて墓へ參り、木となつてしまつたが、それが相思樹《さうしじゆ》といふのだとか、大唐《だいたう》へ渡る道に志賀の明神といふのがあるが、男が唐へいつたのを慕つた女が神となつたが、その島の姿が女に似てゐる。それが松浦佐夜姫《まつらさよひめ》であるとか、昔から今まで、親子の別れ、主從のわかれ、いづれも愁《つら》いが、男女《ふうふ》の死別ほどのはあるまいなどといはれてゐる。
 けれど、そこまでは慰めであつて慰めでなく、そのあとの少しばかりが、眞に尼御前《あまごぜ》にいはれようとした眼目だつたのだ。
 ――御身《おんみ》は過去《くわこ》遠々《とほ/″\》より女の身であつたが、この男《をとこ》(入道)が娑婆《しやば》での最後で、御前《おまへ》には善智識《ぜんちしき》だから、思ひだす度ごとに法華經の題目《だいもく》をとなへまゐらせよ。と、二首の歌も書かれてある。
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ちりし花 をちしこのみ
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