やまひ》は内《うち》より起れば治《ち》しやすく、節《ふし》より起れば治《ち》しがたし。家《いへ》には垣なければ盜人《ぬすびと》入《い》り、人《ひと》には咎あれば、敵《てき》の便《べん》となる。厄《やく》といふのはそんなものだ。家《うち》に垣なく、人《ひと》に病があるやうなもので、守《まも》らせれば盜人もからめとるであらうし、關節の病も早く治せば命は長いであらう。
そも女人《をんな》は、一|代《だい》五千|卷《くわん》、七千餘卷のどの經《きやう》にも佛《ほとけ》になれないと厭《きら》はれてゐるが、法華經《ほけきやう》ばかりには女人《によにん》佛《ほとけ》になると説かれてゐる。日本國は女人《によにん》の國といふ國で、天照大神ともふす女神《によしん》の築《つ》きいだされた島《しま》である。この日本《につぽん》には、男は十九億九萬四千八百二十八|人《にん》、女は廿九億九萬四千八百三十|人《にん》の、この男女がみんな念佛者《ねんぶつしや》で、みんな阿彌陀佛《あみだぶつ》を本尊《ほんぞん》としてゐるから、現世《げんせ》の祈りもその如く、釋尊《しやくそん》の像をつくつたり、繪にしても、彌陀《みだ》の淨土《じやうど》へゆくためで釋尊《しやくそん》を本意《ほんい》としない。日眼女《にちがんによ》は今生《こんじやう》の祈りのやうだが、教主《けうしゆ》釋尊像《しやくそんざう》を造られたから後生成佛《ごしやうじやうぶつ》であらう。二十九億九萬四千八百三十人の女の中の第一の女人《によにん》であると思はれよ。
念佛まをせば極樂へ――處生苦《しよせいく》を諦《あき》らめて、念願は一日も早く彌陀《みだ》の淨土《じやうど》へ引き取つてもらひたいといふのが念佛衆《ねんぶつしゆ》であるなら、穢土厭離《ゑどおんり》、寂滅爲樂《じやくめつゐらく》の思想は現世否定である。筆者は佛教のことは、その絲口も知らないのだが、そんなふうにこの終りの方の文を解釋すると、前の方の關節《ふし》から起る不治の病も、早く治療すれば命は長いとの教へが適切に響いてくる。
これだけの拔き書きの中からすらも、女性を無知のものとして眼をつぶらせて、何事も耐忍《がまん》せよといふのでなく、よく生きよと教へられてゐるのがたふとい。
ある折の日眼女へは、
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――女人《によにん》は、たとへば藤のごとし、をとこは松の
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