桃
長谷川時雨
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)作品《もの》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)にじん[#「にじん」に傍点]だ
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桃。
わたしは、桃の實と女性とを、なにとなく特殊なむすびつきがある氣がして、心をひかれてゐる。それが、なんであるかを、まだはつきりしないのに、とにかく、その大切にしてあるものを、心に熟さないうちに、まだ青い實のうちに、ともかく「明日香」發行のお祝ひに捧げるやうになつた。
今、わたしの部屋に西王母の軸がかけてある。高村光太郎氏刀の桃の實の置物がある。わたしは、それらに示唆されて、桃、といふ題を書いてしまふやうになつたのかもしれない。三千年に一度、花咲き實るといふ仙郷の「桃」は、この場合、藝術の園に遊ぶ人の誰しもが掴まんとするのを、象徴してゐると見てもいい。
芙蓉齋素絢ゑがく西王母は、桃林を逍遙する仙女の風趣氣高く、嫋々としてゐる。その足許近くにある、高村さんの桃の實は、ある朝、庭の木にはじめて實つたのをとつて、感興の逸せぬうちにと刻まれた作品《もの》で、稍まだかたい實の青さに、赤みを交へ、もぎつた枝あとの、青い葉の影には、金色の小蜘蛛がかくれてゐる。わたしは愚かにも、その金色の小蜘蛛に化した大仙女西王母を夢《ゆめ》見て、時刻《とき》を消しては、あわてたりしてゐる。
人は、あまり人を可愛がると、食べてしまひたいほどだといふが、わたしは、熟した桃を見ると、食べてしまふのがをしくなる。あの淡黄色に、ポツと赤味のさした、生毛のある、赤ン坊の頬のやうな薄皮から、甘露といふと古くさいが、金色のあぶらのやうな液體を、細かくふくんで吹いてゐる生《いき》々しさ――それは實に人間に近い美を持ち、人間的な感覺だともいへる。新鮮な肉の感じといふ方は、裂きたての西瓜に感じもするが、桃がわたしに感じさせるものは、もつと高貴的で、精神的で、デリケートな、ちよつと言ひ現はしにくいものだ。
いつであつたか、上野で、ある展覽會に、ある人の描いた「桃」を見たが、あまり大きくもない畫面の、たつた一個の桃に引きつけられて、いつまでも佇んでゐた。不用意にも畫家の名は忘れてしまつたが、いまだにそのにじん[#「にじん」に傍点]だ描きかたが目のなかに殘つてゐる。その畫はかなり現實的で、人間を思はせるものだつたが、
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