くのは悪いと思いながら、楠緒女史が生《いき》て見えますので、ほんの影だけでもうつさせて頂《いただ》きたいと、私は大胆にもその事まで此処へ取りいれました。
 夏目先生が千駄木《せんだぎ》にお住居《すまい》であったころ、ある日夕立の降るなかを、鉄御納戸《てつおなんど》の八間《はちけん》の深張《ふかはり》の傘《かさ》をさして、人通りのない、土の上のものは洗いながされたような小路を、ぼんやりと歩いていらっしゃると、日蔭町というところの寄席《よせ》の前で一台の幌車《ほろぐるま》にお出合なされました。セルロイドの窓が出来ない時分であったので、先生は遠目にも乗っているのは女だという事にお気がおつきでした。車の上の人は無心にその白い顔を先生に見せているのが、先生の眼に大変美しく映ったので、凝《じっ》と見惚《みと》れていらっしゃるうちに、芸者だろうというようなお心が働きかけたそうでした。俥《くるま》が一間ばかりの前へ来たときに、俥の上の美しい人が鄭寧《ていねい》な会釈《えしゃく》をして通りすぎたので、楠緒さんだったということに気がおつきなされたのでした。
 その次に先生が楠緒さんにお逢《あ》いなされたときに、有《あり》のままをお話しなさる気になって、「実は何処《どこ》の美しい方かと思って見ていました。芸者ではないかしらとも考えたのです」と仰《おっ》しゃられたら、楠緒さんは些《ちっ》とも顔を赭《あか》らめず、不愉快な表情も見せず、先生のお言葉をただそのままにうけとられたらしかったと、懐《なつか》しいお話しがありました。
 夏目先生は、楠緒さんのおなくなりの時に、「あるほどの菊投げ入れよ棺の中」という手向《たむけ》の句をお詠《よ》みになりました。
『硝子戸の中』その章《くだり》をお読みなさった大塚|保治《やすじ》博士は、「漸《ようや》く忘れようとすることが出来かけたのに、あれを見てからまた一層思いだす。」と仰しゃったそうです。嘘かまことか知りませんが、正宗白鳥《まさむねはくちょう》さんが角帽生という仮りの名でお書きなされたものの中に、大学の文科においでなさった頃の博士と、前東京控訴院長大塚正男氏の長女の楠緒さんとは、思いあっておむかえなされた仲のように書かれてあったかと覚えております。そうでなくても女史ほどの御配偶をお先立てなされたお心持ちは、思出さぬようにとするのが無理な諦《あきら》めだと、お察しすることが出来ます。
 明治の文壇に、才媛《さいえん》の出身者を多くだしたのは麹町《こうじまち》の富士見小学だときいております。岡田八千代《おかだやちよ》女史も、国木田治子《くにきだはるこ》女史も富士見小学で学ばれました。楠緒女史もお二人よりは、早くの出身でした。一橋《ひとつばし》の高等女学校を卒業なされて、博士の留学のお留守中にも、明治女学校に通《かよ》い、松野フリイダ嬢に学び英語を専習されました。ピアノは和歌と同門の友|橘糸重《たちばないとえ》女史に教えられてお出でした。絵画ははじめ跡見玉枝《あとみぎょくし》女史に、後には橋本雅邦《はしもとがほう》翁に学ばれました。いつでしたかずっと前に、天女《てんにょ》が花を降らせている画《え》をある展覧会で見うけたことがありました。口の悪い評家はかっぽれ[#「かっぽれ」に傍点]天女なんぞと酷評したことがあってから、公開の席では見ることが出来なくなりました。
 多能な女史は料理についても研究なされて、小集会などもよく催されたようでした。
 名誉ある学者の夫人、幸福な家庭の女王、作者としては充分な学殖《がくしょく》と貴《たっと》き未来とをもった、若く美しい楠緒女史は春のころからのわずらいに、夏も越え、秋とすごしても元気よく顔の色もうつくしく、語気も快活に癒《いゆ》る日を待ちくらして、死ぬ日の五日《いつか》まえには、
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籠《こも》り居《い》は松の風さへ嬉しきに心づくしの人の音《おと》づれ
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と竹柏園主佐佐木博士のもとへ葉書をよせられたりなされました。
 墓表《ぼひょう》を書かれた人は、楠緒さんの御婚礼のときに、結納書をかかれた人と同じ老人だということを聞いて、葬式《ほうむり》の日にお友達方は墓表をながめては嘆かれました。
 竹柏園先生は、
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ゆく秋の悲しき風は美しきざえある人をさそひいにける
うつくしきいてふ大樹《おおき》の夕づく日うするゝ野辺《のべ》に君をはふりぬ
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 橘糸重女史は、
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重き気《け》の我身にせまる暗き室《へや》に、君がためひくかなしびの曲
胸にそゝぐ涙のひぎき堪《た》へがたし、暗《やみ》にうもれて君しのぶ時
心あひの友といふをもはゞかりしかひなき我は世にのこれども
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