で、あっぱれ紅葉館は時代に応じた、明るい華やかな、一種の交際場となったのだった。諸芸の取締り兼、酌のとりかたを教える師匠番によばれたのが、吉原《よしわら》の廓《くるわ》からおよしさん(現今は某氏夫人である)と、品川から常磐津のおしょさんのおやすさんの二人。
その当時は、廿四、五だった、色白の、すらりと身長の高い、薄菊石《うすあばた》のある、声の好い、粋なおやすさんが、もう六十五、六になって、須磨子さんの京舞を見ている。おしかさんも最早《もは》や古参株で、それらの老女の一、二人を除くと、動かせない中老どころだ。廿五年勤続の祝いも五、六年前に済んで、もうやがて五十路にも近かろう。
けれども、おしかさんもまだ水々した年増《としま》だ。四十を越したとは、思われない若やかさであったが、しかし、おしかさんと須磨子さんとの間には、十代の差があるように、その日の、光りの暗い襖《ふすま》のかげでは見えた。
玄関|脇《わき》の小砂利《こじゃり》の上には形《かた》ちのよい自動車が主人を送って来て控えている。その車の主こそ京舞の許しものを、昔のおしょさんの出京している間だけならいに通っている、芸ごとが好きな須磨子夫人だった。番町の邸では、時折家族で――子供衆たちの催しではあろうが――大仕掛けなお伽《とぎ》芝居が催されたり、藤間勘十郎《ふじまかんじゅうろう》のお浚《さら》いなどに令嬢の一人舞台で見せられる時もあった。
おしかさんと須磨子さんとは、たしかおないどし生れで、踊り子のなかで、お絹、おまさにつづいて、美貌と上手であった須磨子は、十八の盛りを大橋氏の手に引きとられた。
明治文壇を硯友社《けんゆうしや》の一派が風靡《ふうび》したおりとて、紅葉館の女中の若い美女たちが、互いに好き好きの作者に好意を持つようになったのは、硯友社の尾崎紅葉《おざきこうよう》氏が芝公園近くに生れて、その名さえゆかりもあるというところから、意気もあい、当時の人気作家、花形の青年たちは、毎夜のように、紅葉《もみじ》の襖《ふすま》の照り映《は》ゆる、燈火《ともしび》のもとに集まったのだった。そんなことから、後に紅葉の傑作「金色夜叉《こんじきやしゃ》」が出ると、お宮はお須磨さんがモデルで、貫一は巌谷小波《いわやさざなみ》氏だという噂《うわさ》なども高かった。それよりも、美しさを妬《ねた》んでか、出世を呪《のろ》ってか、俳優では幸四郎、お能の方では、京都の片山九郎三郎のと、とやかくと噂するものもあったが、大橋家には家を起した賢夫人が姑《しゅうとめ》としてあったからには、そうしたロマンスは紅葉館の花形であった美姫の、華やかな語りぐさに過ぎまい。情の港のとまり船、さまざまな甘い、かなしい追憶の積荷《つみに》は、三味線をとって、お相手をして、地《じ》を弾《ひ》いているおしかさんの方にこそ、思いやられることが沢山にある。
おしかさんは数々の人に浅くはなく思われたが、みんなえにしが浅かった。支那の丁汝昌《ていじょしょう》が日本にいるうち、おしかさんの傍を離れかねていた。彼国へ帰ってからも切々な思いは、あの英雄に断腸の文をしたためさせた。あの戦争が起ってからも、あわれな提督はおしかさんを忘れはしなかった。その気持ちをしっているものは丁汝昌の心を察して、わたしにしみじみと語ってきかせたことがある。わたくしはおしかさんと膝組《ひざぐ》みで、そうした恋のいきさつを聴いて、おしかさん一人について何時《いつ》か委《くわ》しく書こうと思っている。わたしはおしかさんの手箱の中には、丁汝昌の秘文が蔵《かく》されていないことはなかろうと思っている。
モルガンお雪の名は高かったが、そのモルガンは、本国で恋に破れて来た痛手を、おしかさんによって柔らかく撫《な》でてもらおうと祈ったのだったが、そのころおしかさんは、故|近衛篤麿《このえあつまろ》侯爵に思われていたおりなので、モルガンの願いはすげなくされた。異郷へ鬱《うつ》を慰めに来た身が、またしても苦しい思いをして、彼れはせめてゆかりのある言葉を聞こうと、おしかさんのなまりとおなじことばで語る京都へいって、祇園《ぎおん》で名もなかったお雪を受出したのだ。そういう張合《はりあい》はあってもなくても、侯爵の思いようも一通りではなかった。誰れでもおしかさんは別者《べつもの》にして、近衛様のお側室《そくしつ》さま格に思い、やがて呼迎えられる日のあることを、遅かれ早かれ、約定済《やくじょうず》みのように傍の者も思っていたが、侯爵は思いもかけぬ病気で不意にこの世を去られた。
それからのおしかさんに、良い日のないではなかったが、最初にあまり良き人々に愛されすぎて、盛りがすぎてゆくとは反対に、誇りの方が高くばかりなっていった。後には長く紅葉館の支配人をしていた某氏
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