と、殆《ほとん》ど夫妻のように見られていたが、その人にも死別してしまった。いまでは、昔はそういう人であったかと、若いものにおりおり顔を見直させるだけで朽ちてゆこうとしている。
恋に生きた昔は知らず、得意な女と、失意の女とが、おなじ起伏《おきふ》しのころのように、一人は踊り、一人は地を弾いて相向っている――
須磨子夫人が昔をふりかえって、以前の友達にむかってもらしたという感想は、
「若かったから辛抱しられたのです。とてもいまじゃあ……」
というのである。でも、知っているものは、そうでしょうともといった。
若い心には、正直な一生懸命さがある。彼女も昨日までの華やかな世界を捨て、小禽《ことり》のようにおどおどとして舅姑《しゅうと》につかえたのだろう。
大橋家は、もうその頃では有数の資産家として、書籍出版業としても第一の店となっていたが、父子ともに計って富を一代に築きあげた、立志伝中の一家であった。越後《えちご》の寒村から出て来て、柳原|河岸《がし》に古本の店を出していた時分は、いまだ時節が到来せず、かなりな苦境におち、赤貧のおりもあったが、姑は良き妻、好《よ》き母であって夫にも子にもその苦しみを訴えず、出来るかぎりを尽して働くものの口を糊《のり》した。それに励まされた父と子は、あれかこれかの末に、印税の入らぬ古い物語を集めて新らしく組み直して売り拡めた。時代の嗜好《しこう》に合した意外の成功に、次から次へと手を拡げて、当りつづけ、新しく戦争成金の続出のために、むかしからの資産家のように見なされてしまうように、幸運は何日も家の棟《むね》の上にいた。烱眼《けいがん》よく人世必要の機微をとらえ、学者、文人、思想家を、店員なみに見なすような巨豪になったとはいえ、その成功はみな書物の貴さによってだった。
姑は賢女だった。貧に暮した時を忘れず、傲《おご》りを警《いまし》めて、かなり店が手広くなってからでも、窮乏した昔を忘れなかった。店員のために蚊帳《かや》を買わねばならなかったが、金の都合で古い古いものを買って来て、青い粉で蚊帳を染め、新らしいものらしく見せかけたが、古蚊帳も青く染ったかわりに、自分の手首もまっ青に染ってしまってなかなかおちなかったのを、それと見た若者たちが、わざと、どうしたのかと一々たずねて困らされた事などを、晩年になっても語りきかせていたということで、成功のかげには、こうした苦心もあるとの教訓も、華やかにくらしてきた、須磨子さんには、苦しいものであったろう。
ある人が、彼女の花の盛りから今日まで、親しく交わっての感慨に、彼女の美は衰えを知らぬのに、それにくらべて自分が男子として、碌々《ろくろく》と日を過して来たと嘆息して、
「七人の子をもてば大概の女の容色は萎《しぼ》むものなのに、あの人は頸《くび》にも、耳の下のあたりにさえ、衰えをも見せていない」
と言った。また、やはり昔から、久しく知っている人が、
「先日向うから自動車が来たので、ふと見ると、美しい人が乗っている。大橋令嬢かしらと思って近づくとお母さんだった。お嫁にゆくほどの年頃の娘さんと、ふと見違えたといっても、間ちがえるのが、決して無理ではない。」
といった。それはほんとに過褒《かほう》ではない。令嬢たちはみんな美しくて上品だが、母君の持つ美しさには、ただ上品ばかりでない洗練されたものがある。
彼女の生立《おいた》ちは――それは、ほんのすこしばかりしか知らない。余計な穿鑿《せんさく》だては入らないことと、強《しい》て探出《さがしだ》そうとはしなかったが、慥《たしか》な説に拠ると、上州で、かなり資産家の一人息子に父親は生れたらしい。その時代の頽廃《たいはい》派でもあったのか、生家とは行来《ゆきき》もせず、東京へ出て愛する者と共に住み、須磨子さんを生ませたのだった。
[#地から2字上げ]――大正九年十一月――
底本:「新編 近代美人伝(上)」岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年11月18日第1刷発行
1993(平成5)年8月18日第4刷発行
底本の親本:「近代美人伝」サイレン社
1936(昭和11)年2月発行
初出:「婦人画報」
1920(大正9)年12月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2007年4月10日作成
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