大橋須磨子
長谷川時雨
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)色彩《いろ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大島|紬《つむぎ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ろう》たげ
−−
霜月はじめの、朝の日影がほがらかにさしている。澄みきった、落附いた色彩《いろ》と香《か》があたりに漂い流れている。
朝雨にあらわれたあとの、すがすがしい空には、パチパチと弾《はじ》ける音がして、明治神宮奉祝の花火があがっている。小禽《ことり》が枝から飛立つ羽《は》ぶきに、ふち紅《べに》の、淡い山茶花《さざんか》が散った。
今日中にはどうしても書いてしまわなければならないと思いながら、目のまえの一本か二本の草木をながめ、引窓からながめるような空の一小部分を眺めて、ぼんやりとしている。
けれど、秋の香《か》は、いつまでわたしをそのままにしておかなかった。菊のかおりが、ふと心をひくと、頭の底の方で鼓《つづみ》の音が丁《ちょう》と響ききこえた。爽《さわや》かに冴《さ》えた音は、しん[#「しん」に傍点]と頭を澄ませてくれた。それにつれて清朗な笛の音も聞える。そして、湿やかに、なつかしみのある三味線の音もあった。
ごしゃごしゃと、乱れた想《おもい》で一ぱいだったと思った頭のなかは、案外からっぽだったと見えて、わたしは何時《いつ》かよい気持ちになって、ある年のある秋の日に、あの広々した紅葉館《こうようかん》の大広間にいて、向うの二階の方から聞えてくるものの音に、しんみりと聞き耽《ふ》けっていたのが、いま目前に浮びあがって、その音曲《おんぎょく》の色調《いろね》を楽しみ繰出している――
――ななつになる子が、いたいけなこと言《ゆ》た。とのごほしと唄《う》とうた……
上方唄《かみがたうた》の台広《だいびろ》の駒《こま》にかかる絃《いと》は、重くしっとりと響いた。こい毛を、まっくろな艶《つや》に、荒歯の毛すじあとをつけた、ほどのいい丸髷《まるまげ》に結《ゆ》って、向うむきに坐って三味線をひいている人がある。すこしはなれたところに、色白な毛の薄い老女が、渋い着ものをきて、半分は後見役《こうけんやく》で、半分は拝見の心持ちで、坐っている。もう一人大柄な、顔もおおきい、年もかなりまさっている老女が、頭のまん中へちいさな簪巻《かんざしま》きを(糸巻きという結びかたかも知れない)つけて、細い白葛引《しろくずひ》きをぴんと結んで、しゃんとした腰附きではあるが、帯をゆるくしめて、舞扇をもって立っている。
その傍に、小腰をかがめて媼《おうな》の小舞《こまい》を舞うているのは、冴々《さえざえ》した眼の、白い顔がすこし赤らみを含んで、汗ばんだ耳もとから頬《ほお》へ、頬から頸《くび》の、あるかなきかのおしろいのなまめき――しっとりとした濡《ぬ》れの色の鬢《びん》つき、銀杏《いちょう》がえしに、大島の荒い一つ着《ぎ》に黒繻子《くろじゅす》の片側を前に見せて、すこしも綺羅《きら》びやかには見せねど、ありふれた好みとは異っている女《ひと》が、芸にうちこんだ生々《いきいき》しさで、立った老女の方へ眼をくばっている――
――さてもさても和《わ》ごりょは、誰人《だれびと》の子なれば、定家《ていか》かつらを――
京舞井上流では、この老女ものの小舞は許しものなので、人の来ない表広間の二階の、奥まった部屋にこの四人は集っている。薄暗いほど欄間《らんま》の深い、左甚五郎の作だという木彫のある書院窓のある、畳廊下のへだての、是真《ぜしん》の描《か》いた紅葉《もみじ》の襖《ふすま》をぴったり閉めて、ほかの座敷の、鼓や、笛の音に、消されるほど忍びやかに稽古をつけている。
立っている、糸巻きに髷《まげ》結んだ老女が、井上流の名手、京都から出稽古《でげいこ》に来て滞留している京舞の井上八千代――観世《かんぜ》流片山家の老母春子、三味線を弾《ひ》いているのは、かつて、日清役《にっしんえき》のとき、威海衛《いかいえい》で毒を仰いで死んだ清国の提督、丁汝昌《ていじょしょう》の恋人とうたわれたおしかさん、座っている老女は、紅葉館創立以来のお給仕《きゅうじ》の総指揮役で、後見役のおやすさん。舞いをならっていた女は、それらの人たちにとっては、客人《まとうど》でもあり、もすこし親しみのある以前の朋輩《ほうばい》でもあった大橋夫人須磨子さんだった。
美に対する愛惜――そうした分明《はっきり》した心持ちを知らなかった時分のことではあるが、わたしはある日、呉服橋の中島写真館で、アルバムをくってゆく
次へ
全4ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング