ろ》ってか、俳優では幸四郎、お能の方では、京都の片山九郎三郎のと、とやかくと噂するものもあったが、大橋家には家を起した賢夫人が姑《しゅうとめ》としてあったからには、そうしたロマンスは紅葉館の花形であった美姫の、華やかな語りぐさに過ぎまい。情の港のとまり船、さまざまな甘い、かなしい追憶の積荷《つみに》は、三味線をとって、お相手をして、地《じ》を弾《ひ》いているおしかさんの方にこそ、思いやられることが沢山にある。
おしかさんは数々の人に浅くはなく思われたが、みんなえにしが浅かった。支那の丁汝昌《ていじょしょう》が日本にいるうち、おしかさんの傍を離れかねていた。彼国へ帰ってからも切々な思いは、あの英雄に断腸の文をしたためさせた。あの戦争が起ってからも、あわれな提督はおしかさんを忘れはしなかった。その気持ちをしっているものは丁汝昌の心を察して、わたしにしみじみと語ってきかせたことがある。わたくしはおしかさんと膝組《ひざぐ》みで、そうした恋のいきさつを聴いて、おしかさん一人について何時《いつ》か委《くわ》しく書こうと思っている。わたしはおしかさんの手箱の中には、丁汝昌の秘文が蔵《かく》されていないことはなかろうと思っている。
モルガンお雪の名は高かったが、そのモルガンは、本国で恋に破れて来た痛手を、おしかさんによって柔らかく撫《な》でてもらおうと祈ったのだったが、そのころおしかさんは、故|近衛篤麿《このえあつまろ》侯爵に思われていたおりなので、モルガンの願いはすげなくされた。異郷へ鬱《うつ》を慰めに来た身が、またしても苦しい思いをして、彼れはせめてゆかりのある言葉を聞こうと、おしかさんのなまりとおなじことばで語る京都へいって、祇園《ぎおん》で名もなかったお雪を受出したのだ。そういう張合《はりあい》はあってもなくても、侯爵の思いようも一通りではなかった。誰れでもおしかさんは別者《べつもの》にして、近衛様のお側室《そくしつ》さま格に思い、やがて呼迎えられる日のあることを、遅かれ早かれ、約定済《やくじょうず》みのように傍の者も思っていたが、侯爵は思いもかけぬ病気で不意にこの世を去られた。
それからのおしかさんに、良い日のないではなかったが、最初にあまり良き人々に愛されすぎて、盛りがすぎてゆくとは反対に、誇りの方が高くばかりなっていった。後には長く紅葉館の支配人をしていた某氏
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