水
長谷川時雨
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)觸《さ》はつて
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ](「生活と趣味」昭和十年七月八日)
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)しみ/″\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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趣味とは、眺めてゐるものと、觸《さ》はつて見るもの、觸《ふ》れなければ堪能できないものと、心に養つてゐるものとがある。それを大《おほ》づかみに一括して「趣味」といふのだらうが、自分に出來ないことを羨ましがるのも、いい意味での趣味だ。それは羨望には、ものねたみをふくむ憂ひはあるが、こんなのは甚だ罪が淺い――
といふのは、私には水泳《およぎ》が出來ないのだ。これは水ぎらひとか、恐怖とかいふのから出來ないのではなくて、生れた土地的のものからと、體質《からだ》からとで、水練の機會がなかつたからだが、これは、一生を通じて損をした大きなものだと思ふ。
場處により、土地によると、別に財物がなくても修練の出來る業《わざ》であり、また健康でさへあればほんの僅かの暇さへあれば、自由に樂しまれることであり、それによつて、夏の生々しさを、どれほどよろこびをもつて迎へることが出來るかわからない。わたしは健康でさへあればといつたが、その健康もまた、それによつて惠まれもする。
わたしのお友達で、水練に熟達してゐる人に、神近市子さんがある。神近さんは南國の海邊のお生れであり、拔手を切つて泳ぐ颯爽たる姿は、誰の目にも思ひうかべられるであらうが、も一人、平塚明子さんが、水の上の仙境を自由にされることは、あんまり知る人がない。
――海面《うみ》に浮いて、空を、じつと眺めてゐると、無念無想、蒼空《おほぞら》の大きく無限なることをしみ/″\とおもふ――
かつて、そんなふうに話されたことがある。それは、わたしが常不斷《つねしじう》、海にういて、大空を眺めてゐたらば――と思ふ、悠久たる想念《おもひ》と合致した、實行の報告なので、さぞ、さこそ、さもさうあらうと、想像しても樂しかつた。それは、考へれば怖い水の下の深さ、廣さ――けれども、それは、仰ぎ見る空の深さ、大きさにくらぶべきでもない。そして、そこに浮ぶ人間の怖れは、小さな抵抗――生に執着した瞬間からの怖さであ
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