らうが、そんなことに拘泥しないのは、泳いで歸られるだけの自信があり、水はよく浮かしてくれるといふ體得があればこそである。
 うらやましいなあと思ふ。水が充分におよげて、人も家もないあたりで、大空にむかつて浮んでゐるその瞬間、もしこれをわたしに天が與へてくれたならば、わたしは何をそこで會得するか、それとも何にもしないか――
 私は不自由な、都會生れの子だつた。しかも、まだ封建的殘物の濃厚な時代に、藏と藏の間に生れた虚弱兒だ。品川の海を時々ながめ、鎌倉の海を、やつと見せてもらへる位だつた。男女七歳にしての庭訓《をしへ》きびしくて、水練の修得などをうる機會はなかつた。それでゐて、そこに蟄服して育つた女の子わたしは、馬に乘ることと、海におよぐことが、一度やつてみたい念願だつた。やつてみて、やれなくはなかつた年頃になると、病《わづら》ひがちな身になつてしまつた。
 泳げないから水をおそれる。そのくせ水が――水邊がすきだ。水の趣きは、實に興趣多々だ。ことに盛夏になると、水、水ではないか、仕事をしたあとで飮む一杯の水でも、コツプを手に差しあげて、なみなみ盛つた豐《ゆた》けさを眺め飮みほすと、生活の力が流れ込むやうに思へる。
[#地から2字上げ](「生活と趣味」昭和十年七月八日)



底本:「桃」中央公論社
   1939(昭和14)年2月10日発行
初出:「生活と趣味」
   1935(昭和10)年7月8日
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年12月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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