まつたつてなんにもならない。また古くさくもとへもどつて二十年前についていふと、小さい鏡を番頭さんが、留湯《とめゆ》の桶と一緒に、グツと押出して來たものだつたが、近ごろは羽目《はめ》一ぱいの鏡があるさうだ。それは、よささうで惡い。こんなことをいふと古くさいと笑はれるかも知れないが、みじんまく[#「みじんまく」に傍点]――即ちおしやれは、人に知られず自分だけコツソリしてこそ引きたつ、同性だからかまはないといふのは違ひはしまいか。もし愛する同志《どうし》が一緒になつて、すぐに嫌になるのが、内面からでなく、あいつのあすこがいやだなんて、顏かたちに指さされるのは、コツソリやるべき身じんまくを、同性の前でやるのとおなじ不遠慮さで――つまり、浴場の鏡場《かゞみば》奪取の光景とおなじ殺風景にやるためではあるまいか――
は、は、これでは浴場美術《おふろばびじゆつ》ではなく浴場哲學? になつちまふ。せめて粹《いき》な女の人だけは、おふろにはいる時も、小唄の女の氣持ちでね、なんて、千九百三十年なのに――
底本:「桃」中央公論社
1939(昭和14)年2月10日発行
初出:今朝「令女界」
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