春
長谷川時雨
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)昨夜《ゆうべ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ごう/\
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今朝
昨夜《ゆうべ》、空を通つた、足の早い風は、いま何處を吹いてゐるか! あの風は、殘つてゐたふゆを浚つて去《い》つて、春の來た今朝《けさ》は、誰もが陽氣だ。おしやべりは小禽《ことり》ばかりではない。臺所の水道もザアザア音をたて、猫はしきりにおしやれをしてゐる。
町では煙草のけむりが鼻をかすめ、珈琲が香《かん》ばしく、電車のレールは銀のやうに光り、オフイスの窓硝子は光線を反映《なげかへ》し、工場の機械はカタンカタン響々《ごう/\》と、規則正しく※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてゐる。
朝はまだバスの女車掌さんにも勞《つか》れは見えないし、少年工も口笛を吹いて、シエパードを呼ぶ坊ちやんに劣らぬ誇りを生産に持つ。
春の新潮《あらしほ》に乘つてくる魚鱗《うろくづ》のやうな生々《いき/\》した少女《をとめ》は、その日の目覺めに、光りを透《すか》して見たコツプの水を底までのんで、息を一ぱいに、噴水の霧のやうな、五彩の虹を、四邊にフツと吹いたらう――[#地から2字上げ](「令女界」昭和十一年四月一日)
昨今
長く病らつてゐる人が、庭へ出られるころには、櫻花も咲かうかと思つてゐると、この冷氣だ。
だが、庭へおろしておく椅子などを、物置から出さしてゐるのなどは樂しい。風は寒くても、さすがに陽光は春だ。
マルセル・プルウストの「音樂を聽く家族」といふのを、譯者の山内義雄氏から貰つたので、その椅子に腰をおろして、ちよいとの間を盜んで頁を斷《き》ると「テュイルリイ」といふ章に、
[#ここから1字下げ]
今朝、テュイルリイの庭の中、太陽は、ふとした影の落ちるのにも忽ち假睡《うたゝね》の夢やぶられる金髮の少年といつたやうに、石の階段《きざはし》の一つびとつのうへに輕い眠りを貪つてゐた――
[#ここで字下げ終わり]
といふ書出しを見て、幾度も讀みかへす。なんともいへず氣に入つたのだ。
それにも負けずに、この頃あたしの、心の隅つこの方に住んでゐる、夕暮の歌がある。一ツは、サッフオの「夕づつの清光を歌ひて」といふ三行詩だ。
[#ここから2字下げ]
汝は晨朝の蒔き散らしたるものをあつむ。
羊を集め、山羊を集め、
母の懷に稚子《うなゐご》を歸す。
[#ここで字下げ終わり]
といふのと、アンリ・ド・レニエの「銘文《しるしぶみ》」といふ、これも三行の詩で、
[#ここから2字下げ]
あな、あはれ、きのふゆゑ、夕暮悲し
あな、あはれ、あすゆゑに、夕暮苦し
あな、あはれ、身のゆゑに、夕暮重し
[#ここで字下げ終わり]
共に、上田敏氏の譯である。
私はロシアといふ國のことを、種々に聽いてゐるが、その自然に對して、改造四月號の、横光利一氏の「半球日記」に書かれた、あの單純な、あの、無造作に見えるほどの表現によつて、草、草、草と、茫々した天地、悠久たる草原をともに見るの思ひがした。
――私は線路の傍に細々とついてゐる一條の路を眺め、ここをドストエフスキーが橇に乘つて流されて來たのかと見詰めてゐるばかりだ。
とあるところでは、わたくしも、びつくりと見詰めてゐるばかりの氣がした。
――ほのぼの朝日がさして來る――
といふ大平原の、
――樹木が一本もない。見る限り黄色な草で蔽はれた柔く低い山々の重なり、明るい光線、雲の流れ。眼を据ゑてぢつと山々を見てゐると、この無人の境では空と地とが狎れ合つてのどかに戲れてゐるやうだ。どことなく土地は一種の羞しさうな處女の表情をしてゐる。――とある。
土地と空とをさう感じたことは、私にもあるので、この大いなる果しなき地と空とでは、さうもあらうと思つた。そして、これは八月の盛夏の日記だが、ずつと前に、與謝野晶子女史が、十月ごろバイカル湖附近を通つて、空と、水と、一望薄の原の灰色と報じられたのをもどうしても忘れないでゐるので、今もそれを思ひあはしてゐる。
[#地から2字上げ](「文藝懇話會」昭和十二年三月)
ブルー・パイ
たとへば、あたしが、モダンな、そして、ちよつと氣どつた、ハイヒールで、心もち肩で風を切るふうな、鼻のさきをなめてやると、かすかに細卷きのうすけむりがかすめた薫りが殘つてゐるやうな、三十歳の女だつたら、六月のドレスは、あの青いカササギみたいな禽《とり》の着附《きつ》けを氣どるだらう
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