。どこかお轉婆ふうで洒《しや》れてゐると思ふ。たしかあれは、濃い紺藍の尾ツポと翼のさきを持つてゐて、頭もその色だつたが、ネクタイを結んだやうに、咽喉のところと、帽子のさきとに、眞紅な眞紅な赤い飾りが、ぽつりとついてゐるのが、唇の紅のやうに鮮かに眼に殘つてゐる。そして上着は底を紺藍に染めた白と紺とのゴマガラ縞だ。
こんなのはあたしには似合はない。でも、六月の陽のさす、青葉の下で、この鳥をいつも眺める時、コケツトな女性をふと聯想する。文壇では宇野千代さんが着たらば、ピツチリとして、きつと好いだらうと思ふのだつた。[#地から2字上げ](「モダン日本」昭十二・七・一)
そよかぜ
あるかぎり展開《みひら》かれた麥畑を地《ぢ》の色にして、岡を越え、河に絶たれては打ちつづく桃の花の眺めは、紅霞《こうか》といふ文字はこれから出て、此野を吹く風が、都の空をも彩どるではなからうかと思ふやうに眺められる。凄いほどな麗人といふよりも美しい野の少女が朱《あけ》の頬を火照《ほて》らしながら、それでも瞳を反らしてしまはずに、うるんだ眼差しで、凝と見入《みい》つてゐるやうな、捨てがたい、胸のはれるやうな心持を與へられる。
私は春が來るごとに、少女達の魂が、宵々ごとの夢にどんなふうに蒸《む》されてゆくだらうかと、笑《ゑ》ましくなつて少女達の顏を眺めることがある。私がまだほんの少女の時分に、凍瘡《しもやけ》のいたがゆいやうな雨のふる宵に風呂から出て、肌の匂ひとは知らずに、白粉の溶《と》けてしみこむ頸もとを眺めたり、自分でも美しいと思ふやうな眼の色を見詰めてゐたり、しつとりと香油をふくむ黒い鬢の毛を掻きなでて見たりして、燈火のもとで鏡に見惚れてゐた時もあつた。
いま私の※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りに、十六の春を、自分の唇の色にも唆かされるやうな夢見がちな娘たちが居る。私はその少女達の面《おも》を眺めるたびに、春風ではないが、少女の額へ柔かい微笑が投げてやりたくなる。
男に生れるのなら
やにつこい色男でなく、才子でなく、といつて大男總身に智惠が※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りかねでなく、老年になつてから哀れだから、細面の美男子でもなく、といつてドングリの如く堅く強げでも、あまり野蠻では厭。
日々の心の生長する、膽ありて細心《さいしん》、己
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