入つたのだ。
それにも負けずに、この頃あたしの、心の隅つこの方に住んでゐる、夕暮の歌がある。一ツは、サッフオの「夕づつの清光を歌ひて」といふ三行詩だ。
[#ここから2字下げ]
汝は晨朝の蒔き散らしたるものをあつむ。
羊を集め、山羊を集め、
母の懷に稚子《うなゐご》を歸す。
[#ここで字下げ終わり]
といふのと、アンリ・ド・レニエの「銘文《しるしぶみ》」といふ、これも三行の詩で、
[#ここから2字下げ]
あな、あはれ、きのふゆゑ、夕暮悲し
あな、あはれ、あすゆゑに、夕暮苦し
あな、あはれ、身のゆゑに、夕暮重し
[#ここで字下げ終わり]
共に、上田敏氏の譯である。
私はロシアといふ國のことを、種々に聽いてゐるが、その自然に對して、改造四月號の、横光利一氏の「半球日記」に書かれた、あの單純な、あの、無造作に見えるほどの表現によつて、草、草、草と、茫々した天地、悠久たる草原をともに見るの思ひがした。
――私は線路の傍に細々とついてゐる一條の路を眺め、ここをドストエフスキーが橇に乘つて流されて來たのかと見詰めてゐるばかりだ。
とあるところでは、わたくしも、びつくりと見詰めてゐるばかりの氣がした。
――ほのぼの朝日がさして來る――
といふ大平原の、
――樹木が一本もない。見る限り黄色な草で蔽はれた柔く低い山々の重なり、明るい光線、雲の流れ。眼を据ゑてぢつと山々を見てゐると、この無人の境では空と地とが狎れ合つてのどかに戲れてゐるやうだ。どことなく土地は一種の羞しさうな處女の表情をしてゐる。――とある。
土地と空とをさう感じたことは、私にもあるので、この大いなる果しなき地と空とでは、さうもあらうと思つた。そして、これは八月の盛夏の日記だが、ずつと前に、與謝野晶子女史が、十月ごろバイカル湖附近を通つて、空と、水と、一望薄の原の灰色と報じられたのをもどうしても忘れないでゐるので、今もそれを思ひあはしてゐる。
[#地から2字上げ](「文藝懇話會」昭和十二年三月)
ブルー・パイ
たとへば、あたしが、モダンな、そして、ちよつと氣どつた、ハイヒールで、心もち肩で風を切るふうな、鼻のさきをなめてやると、かすかに細卷きのうすけむりがかすめた薫りが殘つてゐるやうな、三十歳の女だつたら、六月のドレスは、あの青いカササギみたいな禽《とり》の着附《きつ》けを氣どるだらう
前へ
次へ
全5ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング