春宵戲語
長谷川時雨
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)お漬《つ》けもの
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)力|※[#「てへん+角」、35−9]《くら》べ
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]
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ふと、ある日、菜の花のお漬《つ》けものがございますかとAさんにお目にかかつたとき、關西《かみがた》の郊外の話から、お訊ねしたことがあつた。それは、ずつと前に、たしかに菜の花であらうと思ふのを食べた、その風味《ふうみ》を忘れないでゐたからだつた。
ありますとも、しかし、あれは、はじめに出たしん[#「しん」に傍点]を止めて、二度目に一本出た花の、頭のさきを、ちよぼつと摘んだのがよろしいと委《くは》しくをしへていただいた。わたしはくひしんぼで食道樂からばかり菜の花漬をおぼえてゐたのではないが、あると聽いてうれしかつた。
わたしは子供の好むやうな春の景色がすきで、したがつて菜の花に黄色い蝶が飛んでゐるありきたりの野面《のづら》が大好き。目もはるかに、麥畑が青くつづいて、菜の花畑は黄で、そのずつとむかうに桃圃のある、うち展《ひら》けた、なだらかな起伏の、平凡すぎるほどのどやかな田園風景が好きだつた。だがもう、東京附近ではさうした景色はだんだんなくなつてしまつて、麥畑や桃圃はあつても、黄色い菜の花のつづいたところなどは、げんげ草とともに、春の野面《のづら》からいろどりを失つてしまつてゐる。
で、いつも菜の花を思ふと、河内の風を思ひだす。菜の花のかをりと、河内和泉の、一圓に黄色にぬりつぶした中に、青い道路のある、閑《のど》けさと、豐《ゆた》けさとをもつ田舍が、すぐ目にくるのだつた。そしてまたわたしは、あの菜の花の咲きつづく和泉の國、信田《しのだ》の森《もり》の葛《くず》の葉《は》狐《ぎつね》の傳説をおもひうかべないではゐない。
この傳説は、幼少のころ、文字から來ないで、さきに、目と耳からはいつた。見る方は芝居で、障子へ、戀しくばたづね來てみよ和泉なる信田の森の怨《うら》み葛の葉、と書き殘して姿を消す、葛の葉姫に化けた狐の芝居の幻想が、すつかりわたしを魅了してしまつたのだつた。母狐に殘された幼い阿部《あべ》の童子《どうじ》のあはれさが、おなじ年頃のものの心へ働きかけたのはいふまでもないが、あの芝居の舞臺面はいかにも美しく情趣がこまやかだ。※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《らふ》たけてしかも鄙《ひな》に隱れ住む、すこし世帶やつれのした若い母が、窓のきはで機を織つてゐる夕暮れ、美しい都の姫がたづねてくる。ほんものの葛の葉姫と狐葛の葉との喜悲は、障子の紙一重の相違となり、破局となる。
花野を、紅《あか》い緒《を》の塗笠《ぬりがさ》をかぶつて、狐葛の葉が飛んでゆく舞臺の振《ふ》りは、どんなに幼心をとらへたらう。それは千種《ちぐさ》の花野であり、葛の葉の怨みからいつても、秋の野であり、秋の暮の出來ごとであるのを、どうして、菜の花と關聯して考へるのかといふと、日向雨《ひなたあめ》の仲だちがある。
陽光《ひ》がさしてゐて薄い雨が降ると、狐の嫁入りだ、狐の嫁入りだと、なんのわけか知らないが、子供たちは地べたに腹んばひになつて、地上を透して見ようとした。さうすると、お駕籠に乘つたのも、お供のさげてゐる提燈も見えるのだといふ、さういふ優《やさ》しげなことを耳にきいてゐるので、狐が化《ば》かすと馬糞を御馳走だといつて食べさせたり、こやし溜へお湯だといつて入れるのといふ、汚い方のことなどは笑つてしまつて、美しい方のことだけが聯想されるのだつた。それは、わたしたちが都會の子供で、狐については、本ものを知らず、彼の狡智《かうち》な顏つきに接せず、しかも、そんな、汚なく化《ばか》される人間そのものを、てんから馬鹿ものとして耳にしてゐたからなのかも知れない。
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ある日わたしは、大和の人に日向雨《ひなたあめ》が降ると、狐の嫁入りといふかときいた。この娘は高市《たけち》郡の八木の方で生れて、奈良市にも住み、河内にも吉野にも親類があつた。さういひますいひますと懷《なつか》しい郷土を思ひだして、にこにこしながらいつた。
萬葉集のなかに、たぶんたつた一ツであらうと思ふ狐の歌が、これもずつと前から好きなので
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さしなべに湯沸かせ子ども櫟津《いちひづ》の檜橋《ひばし》より來む狐《きつ》に浴《あ》むさむ
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といふのを覺えてゐる。これは、お酒をのんでゐるときに狐が鳴いたので
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