、そこにある器具や土地の名や、狐をよみこんで一首つくれと、お客がいふので主人の即興詩だといふことだ。が、わたしはそれよりも、子供たち、早くその注鍋《さしなべ》で湯を沸かせろ、狐が檜橋《はし》の方からくるぞ、あいつにぶつかけてやらう、と、急に狐狩を思ひたつ、昔の人の、一ぱい機嫌が見えるやうに自分解釋もそへて、なんとなくなつかしく好きなのだつた。櫟津《いちひづ》は大和の添上《そへかみ》郡だといふから、櫟津《いちひづ》の檜橋《ひばし》とつづけると、神田の龍閑橋《りうかんばし》とか芝の土橋《どばし》とかいふふうに方向まで示してゐるので、その土地に委《くは》しくもないくせに、大和生れの娘の顏を見て、にやついたのだ。
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葛の葉の信田《しのだ》の森の狐に似てゐる話が「靈異記《れいいき》」の中にあるが、その狐も人間の子を生んでゐる。
欽明天皇の御代、三野の國大野郡の人が野中で遭つた女を家に連れて來て、一男を生ませたが、その家の犬が十二月十五日に仔を生んだところが、犬の仔が家室《おいへさん》にむかつて吠えてしかたがない。家室さんは犬の仔を殺してくれと家長《だんなさん》にいふのだが、殺すも不愍と隱しておいた。ところが、三月になつて、年米を舂《つ》く時に、稻舂《いなつ》き女たちに間食《おやつ》をやらうと家室さんが碓屋《うすや》にはいつてゆくと、彼の犬の仔が吠えておつかけた。犬に追はれた家室さんは忽ち野干《やかん》となつて籬《まがき》の上に乘つてゐる。紅染《くれなゐぞ》めの裳《も》を着て、裳裾《もすそ》をひいて遊んでゐる妻の容姿《すがた》は、狐といへど窈窕《ようちよう》としてゐたので、夫は去りゆく妻を戀ひしたつて、
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二人の中には子がある。だから、吾を忘れないで、毎日來て寢よ、毎晩寢に來いよ。
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と叫んだのだ――來て寢よは、來つ寢よなので、この夫どののことばによつて岐都禰《きつね》といふとある。そこで、この野干《やかん》の生んだ子を岐都禰《きつね》といふ名にし、姓を狐の直《あたひ》とした。其の子が大變な力持《ちからもち》で、走ることの疾さは鳥の飛ぶごとしとある。そして三野國の狐の直《あたひ》らが根本はこれなりとあるが、これは諸書にも引かれてゐるであらうからかなり知られてゐるかもしれない。ただ面白いのは、この後日談があることだ。
それはこの、力者《ちからもち》の狐直《きつねのあたひ》の四世の孫にあたる、大力女の、力|※[#「てへん+角」、35−9]《くら》べの話で、しかも、この狐の子孫の方が、一方の、まじりなし人間|種《だね》の力持ち女に負けた話なのである。わたしが子供のころ、イツチヤイツチヤ、イツチヤナ、とか唱へながら角力をした、女力者《をんなちからもち》の見世ものがあつたが、どうして一三八〇年位も前の、この二女力士のすさまじさに競《くら》べやうもない。なにしろ、負けた方のが百人力といふのだから話は大きい。上野動物園のお花さんいどころではない。
聖武天皇の御代に、三野の國|片縣《かたあがた》の郡、少川の市《まち》に住んでゐた、百人力女が、前の犬に追はれた岐都禰《きつね》の末裔《まつえい》だが、おのが力をたのんで、往還《おうかん》の商人《あきんど》の物品を盜む。そのことをきいて憤慨したのが、尾張の國愛知郡、片輪《かたわ》の里《さと》の一女流力者――ちよつとここではさんでおくのは、前の狐女末裔は大女、この正義の女史は小女です。この小女力者、大女力者を試すのに、蛤《はまぐり》五十斛を捕つて、船に載《の》せてゆき、少川の市《まち》に泊《とま》つた。よし來たとばかりに奪《と》りにいつたのが大女、昔から女でも總身に智惠がまはらなかつたと見えて、小女女史が豫備に熊の葛練《くずねり》の鞭を二十段も隱し持つのを知らなかつた。
狐氏の大女は蛤を盜つて賣らしてしまつてから、何處から來たといつた。蛤主不答。四度目にはじめて答へたが、來しかたを不知《しらず》とやつたので、狐氏の大女が、不禮者とばかり蛤小女を打つた。一つぶたせて二の手を待つて、待つてゐましたとばかりその手を捉へ、熊葛鞭《くまくずむち》でピシリとやつた。鞭に肉が附いてきたといふその勢ひで、もひとつ、もひとつ、もひとつ、十段の鞭、打つに隨つてみな肉着くといふのだから、狐氏の大女も音《ね》をあげて服也《ふくすなり》、犯也《おかせしなり》、惶也《をそるるなり》、とあやまつてしまつた。蛤小女その時昂然として、自今|此市《このまち》に強て住まば、終に打殺さん也と威《おど》したところ、狐氏大女も殺されては堪らぬと逃げたので、彼|市《まち》の人總て皆悦んだといふ。
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こんな話を、よく覺えてゐたと思ひながら、何から思出したかと思ふ
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