になりたいが鼻が低いからとしきりに気にしていた。そこで某氏はパラフィンを注射した俳優に知合《しりあい》のある事をはなして、そんな例もあるから心配するにも及ぶまいというと、彼女はその俳優の鼻が見せてもらいたいといいだしたので連れてゆくと、やっと安心してその後注射した。
鼻の問題ではも一つ面白い挿話《エピソード》がある。佐藤(田村)俊子さんが、文芸協会の女優になろうとしたことがある。女史は充分に舞台を知っているうえに、遠くない前に本郷座《ほんごうざ》で「波」というのを演《や》って、非常な賞讃を得た記憶が新しかったから、気まぐれではなかったのにどうしたことか中止してしまった。ある日そのことを言出して、噂《うわさ》は嘘だったのか本当だったのかと聞くと、
「嘘のことはない。やろうと思ったから行ったのだけれど中止《やめ》にしてしまったの。だって、須磨子の鼻を見ていたら――鼻の低いものが寄合ったってしようがないじゃないの」
あの女史はポンポンと言ってしまったけれど、口のさきと心の底と、感じたものとおなじであったかどうかはわからない。感覚の鋭い女史が、激しい気性の須磨子と上になることも下になることも出来にくいと、見てとったと思うのは推測にすぎるかもしれないが、低い鼻という愛敬にかたづけてしまった俊子女史の機智《ウィット》もおもしろい。いま米国《アメリカ》の晩香波《バンクーバー》に新しい生涯を開拓しようとして渡航した女史のもとに、彼女の訃《ふ》がもたらされたならばどんな感慨にうたれるであろう。
須磨子の年|老《と》った母親は他人が悔みをいったときに、
「どうせ死神につかれているのですから、今度死ななくなったって、何処かで死んだでしょうから」
と諦《あき》らめよく言切ったそうである。
彼女の故郷は? そうした母親の懐《ふところ》! 彼女が故郷への初興行は、たしかズウデルマンの「故郷」のマグダであったかと思う。そのおりの名声はすさまじいもので、県の選出代議士某氏は、信州から出た傑物は佐久間象山《さくましょうざん》に松井須磨子だとまで脱線した。けれどその須磨子の幼時は、故郷の山河は人情の冷たいものだという観念を印象させたに過ぎなかったのだ。
長野県|埴科郡松代在《はにしなごおりまつしろざい》、清野村《きよのむら》が彼女の生れた土地《ところ》で、先祖は信州上田の城主|真田《さなだ》家の家臣、彼女の亡父も維新のおりまで仕官していた小林藤太という士族である。芸術倶楽部の一室に、九曜の星の定紋のついた陣笠がおいてあった。幕府の倒壊と共に主と禄《ろく》に離れた亡父も江戸に出て町人になったが、馴《な》れぬ士族の商法に財産も空しくして故山に帰《か》えった。
信州の清野村に小林正子の彼女が生れたのは、明治十九年の十二月で八人の兄と姉とを持った末子であった。六歳《むっつ》のときに親戚にあたる上田市の長谷川家へ養女に貰われていった。小学校時代から勝気で、男の児《こ》に鎌を振りあげられて頭に傷を残している。十六歳の時になって不幸は萌《きざ》しはじめた。養父の病死に一家は解散し、誠の母親よりも慈愛に富んでいた養母とも離れることになった。実家に引き取られ、その年の秋には、実父にも別れた。僅《わずか》の間に二人の父を失った彼女は、草深い片田舎《かたいなか》に埋もれている気はなかった。姉を頼りにして上京したのが、明治卅五年の四月、故郷《ふるさと》の雪の山々にも霞《かすみ》たなびきそめ、都は春たけなわのころ、彼女も妙齢十七のおりからであった。
彼女が頼みにして来た姉の家は麻布《あざぶ》飯倉《いいくら》の風月堂という菓子舗《かしや》であった。義兄の深切で嫁《とつ》ぐまでをその家でおくることになったが、姉夫婦は鄙少女《ひなおとめ》の正子を都の娘に仕立《したて》ることを早速にとりかかり、気の強い彼女を、温雅な娘にして、世間並みに通用するようにと、戸板裁縫女学校を選《え》らまれた。
彼女が後に文芸協会の生徒になって、暫時|独身《ひとりみ》でいたとき、乏しいながらも二階借りをして暮してゆけたのは一週に幾時間か、よその学校へ裁縫を教えにいって、すこしばかりでもお金をとる事が出来たからで、その時裁縫女学校へ通ったという事はかの女《じょ》の生涯にとって無益《むだ》なものではなかった。
都の水で洗いあげられた彼女は風月堂の看板になった。――彼女は美しい、いや美人ではないということが時々持ちだされるが舞台ではかなり美しかった。厳密にいったなら美人ではなかったかも知れないが、野性《ワイルド》な魅力《チャーム》が非常にある型《タイプ》だ。
正子が店に座るとお菓子が好《よ》く売れるという近所の評判は若い彼女に油をかけるようなものであった。縁談の口も多くあったが断るようにしているうちに、話がまとまって彼女は嫁《とつ》いだ。十七歳の十二月はじめに上総《かずさ》の木更津《きさらづ》の鳥飼《とりかい》というところの料理兼旅館の若主人の妻となった。
彼女はどこまでも優しい新妻《にいづま》であり、普通の女らしい細君であったが、信州の山里から出て来たのは、こんな片田舎の料理店の細君として納まってしまう約束であったのであろうかと思わぬわけにはゆかなかった。それに彼女の故郷の風習と、木更津あたりの料理店の女将《おかみ》である姑《しゅうとめ》の仕来《しきた》りとは、ものみながしっくり[#「しっくり」に傍点]とゆかなかったその上に、若主人は放蕩《ほうとう》で、須磨子は悪い病気になったのを、肺病だろうということにして離縁された。
……私は思う。勝気な彼女の反撥心《はんぱつしん》は、この忘れかねる、人間のさいなみ[#「さいなみ」に傍点]にあって、弥更《いやさら》に、世を経《ふ》るには負《まけ》じ魂《だましい》を確固《しっかり》と持たなければならないと思いしめたであろうと――
嫁入ってたった一月《ひとつき》、弱まりきった彼女はまた飯倉の姉の家にかえってきた。健康が恢復《かいふく》して来ると、五年の星霜《せいそう》は、彼女には何かしなければならないという欲求が起って来た。
正子が松井須磨子となる第一歩は、徐々に展開されるようになった。彼女に結婚を申込んだ人に前沢誠助《まえざわせいすけ》という青年があった。高等師範に学んでいたが、東京俳優学校の日本歴史教師を担任していた。俳優学校というのは、新派俳優の故参、藤沢浅次郎《ふじさわあさじろう》が設立したもので、そのころ米国哲学博士の荒川重秀《あらかわしげひで》氏も新劇団を起し、前沢はその方にも関係を持っていた。その青年の求婚は須磨子の方でも気が進んだのであろう。前沢の乏しい学生生活に廿二歳の正子という華やかな色彩が加わった。
堅気《かたぎ》の家に寄宿して、出京しても一度も芝居を見なかった若い細君の耳へ、毎日毎日響いてくるのは、劇に新生面を開いてゆかなければならないと、論じあう若き人々の声ばかりであった。新時代の要求は立派な女優であるというような事も響いた。良人《おっと》の前沢は妻にもそれを解らせようとした。彼女も知らずしらずに動かされて女優修業をしようと思い立った。前沢の関係のある俳優学校は女優を養成しなかったので、坪内先生の文芸協会へはいることになった。
当時、文芸協会の女優生徒の標準は高かった。英文学の講義、英語の素読というような科目もあった。彼女は試験委員の一人であった島村氏の前へはじめて立ったおり、島村氏はじめ他の委員も彼女の強壮なのと、音声の力強いのと、体躯《からだ》の立派なのに合格としたが、英語の素養のないので退学させられるということになった。
彼女の異状な勉強はそれからはじまる。彼女は二つのおなじ英語の書籍を持って、一つにはすっかりと一字一字仮名をつけ、返り点をうち、鵜呑《うの》みの勉強をはじめた。教える方が面倒なために持てあますほどであった。その熱心さが坪内博士を動かして、特別に別科生として止まる事が出来たのであった。彼女は熱心と精力のあるかぎりをつくしたのでABCもよく出来なかったのが三ヶ月ばかりのうちに、カッセル版の英文読本をもってシェクスピアの講義を聴くことが出来た。他の生徒に負けぬように芝居に関する素養も造っておこうというので、学校の余暇には桝本清《ますもときよし》について演芸の知識を注入した。
文芸協会の第一期公演は、第一期卒業の記念として帝国劇場で開催された。それが須磨子にも初舞台である。多くあった女生《じょせい》もその時になると山川|浦路《うらじ》と松井須磨子とだけになっていた。ハムレット劇の王妃ガーツルードは浦路で、オフィリヤは須磨子であった。それは明治四十四年の五月のことで、新興劇団の機運はまさに旺盛《おうせい》の時期とて、二人の女優は期待された。
廿五歳になったおり卒業を前に控えて彼女の第二の離婚問題はおこった。自分の天分にぴったりとはまった仕事を見出すと、彼女の倨傲《きょごう》は頭を持上げはじめた。勝気で通してゆく彼女は気に傲《おご》った。それに漸《ようや》く人物の価値《ねうち》の分るようになった彼女は前沢との間が面白くなくなりだした。満されないものがはびこりはじめた。良人との衝突も度重《たびかさ》なって洋燈《らんぷ》を投げつけるやら刃物三昧《はものざんまい》などまでがもちあがった。とうとう無事に納まらなくなってしまった。その間に彼女は卒業した。
ヒステリー気味な所作《しうち》は良人へばかりではなかった。同期生の男たちが、山出《やまだ》しとか田舎娘などとでも言ったら最期《さいご》、学校内でも火鉢が飛んだりする事は珍らしくなかったのである。けれども気性のしっかりしているのも群を抜いていたという。一度言出したことは先生の前でも貫こうとする。そういった気性が女王《クイン》になった芸術座でもかなり人を困らせたのだ。
彼女もまた時代が命令して送りだした一人の女性である。たまたま彼女が泰西《たいせい》の思想劇の女主人公となって舞台の明星《スター》となったときに、丁度我国の思想界には婦人問題が論ぜられ、新しき婦人とよばれる若い女性たちの一団は、雑誌『青鞜《せいとう》』を発行して、しきりに新機運を伝えた。すべて女性中心の渦《うず》は捲《ま》き起り、生々とした力を持って振《ふる》い立った。その時に「人形の家」のノラに異常な成功をした彼女は、驚異の眼をもって眺められた。彼女の名はあがった。
ある夜更《よふ》けに冷たい線路に佇《たた》ずみ、物思いに沈む抱月氏を見かけたというのもそのころの事であったろう。ノラの舞台監督で指導者の抱月氏に、須磨子が熱烈な思慕を捧《ささ》げようとしたのもその頃のことであった。
恋と芸術の権化《ごんげ》――決然と自己を開放した日本婦人の第一人者――いわゆる道徳を超越した尊敬に値いする人――『須磨子の一生』の著者はそう言っている。
彼女は猛烈に愛した。彼女はその恋愛によって抵抗力を増した。けれど抱月氏の立場は苦しかった。総《すべ》てのものが前生活と名をかえてしまった。家庭の動揺――文芸協会失脚――早稲田大学教職辞任――
彼女にも恩師であった坪内先生の、畢世《ひっせい》の事業であった文芸協会はその動揺から解散を余儀なくされてしまった。島村氏も先生にそむいた一人になった。
嫉視《しっし》、迫害、批難攻撃は二人の身辺を取りまいた。抱月氏の払った恋愛の犠牲は非常なものだったが、寂しみに沈みやすいその心に、透間《すきま》のないほどに熱を焚《た》きつけていたのは彼女の活気であった。そして抱月氏が生《いき》る道は彼女を完成させなければならなかった。かなり理解を持っているものですら、学者は世間見ずのものであるが、ああまで社会的に堕落してゆくものかとまで見られもした。貨殖《かしよく》に忙《せわ》しかった彼女が種々《いろいろ》な客席へ招かれてゆくので、あらぬ噂さえ立ってそんな事まで黙許しているのかと蜚語《ひご》されたほどである。「緑の朝」のすぐ前に、歌舞伎座で「沈鐘《ちんしょう》」の出されたおり楽屋のも
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