のが、
「あの人はあれで学者の傑《えら》い先生なんですってね、男衆《おとこしゅ》かと思ったら」
そんなに見縊《みくび》られても黙々と、所信の実行を示すだけであったが、芸術座と松竹会社との提携が成立したので、これからこそ島村氏の学者としての復活だと予想されたおり忽然《こつねん》として永眠されてしまった。座員、脚本部員、事務員と、島村氏のもとに統率された芸術座もその年の暮にはまず脚本部が絶縁し、芸術座は解散し、須磨子一座ということになってしまった。
オフィリヤで狂乱の唄《うた》をうたい、カチューシャでさすらいの唄から、一段と世間的に須磨子の名は広まった。行《ゆ》こうかもどろかオロラの下へ――という感傷的《センチメンタル》な声は市井《しせい》の果《はて》から田舎人の訛声《だみごえ》にまで唄われるようになった。そして最後にカルメンの悲しい唄声を残して彼女は逝《い》った。流行唄はすぐさまこんなふうに悲しい彼女の身の上を唄った――
[#ここから2字下げ]
君に離れてわしゃ薔薇《ばら》の花。濡《ぬ》れてくだけてしおしおと、ゆうべさびしい楽屋|入《いり》、鬘《かつら》衣裳も手につかず、
幕の下《お》りると待ちかねて、すすり泣くぞえ舞台裏――
[#ここで字下げ終わり]
彼女の葬式はすべて抱月氏のにならっておこなわれた。日も時刻も何もかもみんなおなじようであった。ただ柩《ひつぎ》に引添う彼女が見られなくなったばかりで、式場の光景は一層盛大で、数々の花環に取りかこまれ、名ある新旧俳優も列し、弔辞が捧げられた。けれども彼女が遺書の中に繰りかえし繰りかえして頼んでいった抱月氏との合葬のことは問題になった。坪内先生の説は並べて墓を建てたらというので、それには未亡人も、
「坪内先生のおっしゃる事にはそむかれない」
と許したのであったが、かえって彼女の親戚側の方から、
「島村氏と一緒にいたことさえ良いとは思わなかったのだから」
と頑迷《がんめい》なことを言出したため、彼女がとっておいた島村氏の遺髪と一所に葬ることにして、遺骨は信州へ持ちかえられた。彼女ほどに透徹した人生をおくったものが、墓地などの形式を気にかけたのはおかしいが、古来の伝説や何かに美化されたものを思いだしたのでもあろう。
彼女は何故《なぜ》死んだ、芸に生きなかったかとは言いたくない。彼女には宗教もない、彼女の信仰は自分自身であったのであろう。その本尊《ほんぞん》が死を決したときに芸術も信仰も残らぬはずである。楠山氏への偏愛問題とかが脚本部動揺の基《もと》になっていたようであったが、彼女がこの後いくら生《いき》ていて誰れに愛を求めようとも、抱月氏の高さ、尊さが、胸に響きかえってくるばかりで、決して満足のあるはずはない。かの女《じょ》の死は当然のことである。
私は彼女のことを詩のない女優といったが、あの女《ひと》の死は立派な無音の詩、不朽な恋愛詩を伝えるであろう。ほんとに死処《しにどころ》を得た幸福な人である。
松井須磨子の名は、はじめて芸名をさだめる時に、印刷物の都合でせきたてられたとき、松代《まつしろ》から出たのだから松代須磨子としようといったら、傍から、まっしろ(真白)須磨子ときこえると茶化したので、それでは松井にしようといった。するとまた、まずい須磨子ときこえるといった。けれど「まずくっても好い」と小さな紙裂《かみき》れへ書いて出したのが、大きな名となって残るようになった。
とはいえ彼女はやっぱり慾張っていた。死ぬまで大芝居《おおしばい》を打って、見事に女優としての第一人者の名を贏得《かちえ》ていった。乏しい国の乏しい芸術の園に、紅蓮《ぐれん》の炎が転《ころ》がり去ったような印象を残して――
[#地から2字上げ]――大正八年四月――
底本:「新編 近代美人伝(上)」岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年11月18日第1刷発行
1993(平成5)年8月18日第4刷発行
底本の親本:「近代美人伝」サイレン社
1936(昭和11)年2月発行
初出:「婦人画報」
1919(大正8)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2007年4月10日作成
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