たならその素振《そぶ》りを見逃がさなかったであろう。何か異状のあることと気をつけていたに違いない。彼女は写真を撮るまえに泣いたばかりでなく、ひとり淋しく廊下に佇《たたず》んで床を見詰めていたばかりでなく、その日は口数も多くきかなかった。夕食に楽屋一同へ天丼《てんどん》の使いものがあったが、須磨子の好きな物なのにほしくないからとて手をつけなかった。帰宅してからも食事をとらなかった。夜更けてかえると冷《ひえ》るので牛肉を半斤ばかり煮て食べるのが仕来《しきた》りになっていた。それさえ口にしなかった。十二時すぎになると、抱月氏を祭った仏壇のまえでひそひそと泣いていたが、それは抱月氏の永眠後毎日のことで、遺書は四時ごろに認《した》ためられた。
最後の日の朝、洗面所を見詰めて物思いにふけっていたというが、生前抱月氏は手細工《てざいく》の好きな人で、一、二枚の板ぎれをもてば何かしら大工仕事をはじめて得意でいた。洗面台もそうしたお得意の細工であったのである。毎朝々々顔を洗うたびに凝《じっ》と見詰めているが、そのおりも何時《いつ》までも何時までも立ったままなので風邪《かぜ》をひかせてはいけないと、女中が気をつけに側へいったのに驚いて、歯を磨きだした。そしてその翌朝は、そこのとなりの、新らしく建増《たてま》した物置きへ椅子や卓《テーブル》を運んでいったのであった。つい隣りの台所では下女《げじょ》が焚《た》きつけはじめていたということである。坪内《つぼうち》先生と、伊原青々園《いはらせいせいえん》氏と、親類二名へあてた遺書四通を書きおわったのは暁近くであったであろう。階下の事務室に寝ているものを起して六時になったら名|宛《あて》のところへ持ってゆけと言附けたあとで、彼女は恩師であり恋人であった故人のあとを追う終焉《しゅうえん》の旅立ちの仕度にかかった。
彼女は美しく化粧した。彼女は大島の晴着に着代え、紋附きの羽織をかさね、水色|繻珍《しゅちん》の丸帯をしめ、時計もかけ、指輪も穿《は》めて、すっかり外出姿《そとですがた》になって最後の場へ立った。緋の絹縮《きぬちぢみ》の腰|紐《ひも》はなめらかに、するすると、すぐと結ばれるのを彼女はよく知っていたものと見える。
あの人は変っている、お連合《つれあい》と口論したら、飯櫃《めしびつ》を投《ほう》りだして飯粒だらけになっていたって――家がお堀ばたの土手下で、土手へあがってはいけないという制札があるのに、わざと巡査のくる時分に駈《かけ》上ったりするって。ということを、まだ文芸協会の生徒の時分に聞いた。そのうち舞踊劇の試演があって、坪内先生のいらっしゃる楽屋にお邪魔していると、ドンドンドンという音がして近くで大きな声がした。何だろうと思っていると、
「正子《まさこ》さんの白《せりふ》のおさらいだ」
と説明するように傍の人が言ったが、四辺《あたり》にかまわぬ大きな声は、悪口をいえば瘋癲《ふうてん》病院へでもいったように吃驚《びっくり》させられた。今度の騒ぎで諸氏の感想を種々聴くことが出来たが、同期に女優になり、いまは「近代劇協会」を主宰している良人《おっと》の上山草人《かみやまそうじん》氏と御夫婦しておなじ協会の生徒であった山川浦路《やまかわうらじ》氏の談話によると、生徒時代から須磨子は努力の化身のようで、手当り次第に台本を持ってきて大きな声で白《せりふ》をいったり朗読したりし、対手《あいて》があろうがなかろうがとんちゃくなく、すこしの暇もなく踊ったりして、火鉢にあたっている男生の羽織の紐をひっぱっては舞台へ引出して対手をさせる。その人が労《つか》れてしまうとまた他の人を引っぱりだしてやらせる。皆が嫌がると終《しま》いには一人で、オフィリヤでもハムレットでも墓掘りでもやってしまう。自分の役でない白でも狂言全体のを覚えこむという狂的な熱心さであったということである。
生徒時代には身なりにとんちゃくなく、高等女学校や早稲田《わせだ》大学出の人たちの間へはさまり、新時代の高級女優となって売出そうという人が、前垂《まえだ》れがけの下から八百屋で買って来た牛蒡《ごぼう》と人参《にんじん》を出してテーブルの上へのせておいたまま「これはお菜《かず》です」とその野菜をいじりながら雑誌を一生懸命に読出したということや、他の生徒たちと一所に帰る道で煮豆やへ寄って、僅《わず》かばかりの買ものを竹の皮に包ませ前掛けの下にかくし「これで明日のお菜もある」といった無ぞうさや、納豆《なっとう》にお醤油《しょうゆ》をかけないで食べると声がよくなるといわれると、毎日毎日そればかりを食べて、二階借りをしていたので台所がわりにしていた物干しには、納豆のからの苞苴《つと》が稲村《いなむら》のようなかたちにつみあげられ、やがてそれが焚附《たきつ》けにもちいられたということや、卒業間近くなって朝から夜まで通して練習のあったおりなど、みんながそれぞれのお弁当をとるのに、袂《たもと》のなかから煙の出る鯛焼《たいやき》を出してさっさと食べてしまうと、勝手にさきへ一人で稽古《けいこ》をはじめたということなど、そうもあったろうとほほえまれる逸話をいろいろと聞いている。
「須磨子は地方へゆくと、座員のお弁当まで受負うのですとさ。一本十三銭五厘だって。だって、たしかな人がいうのですもの嘘ではない。それでね大奮発《おおふんぱつ》で手製なのですって、お手伝いをさせられるものは大弱りだわ。みんながよく食べるかって? ううん、不味《まず》くっていやだというものが多いから大儲《おおもう》かりなの。だって自弁は御勝手で、つまり芸術座から賄費《まかない》用が出るのだから。手っとりばやく芸術座の儲けの幾分が、女優須磨子の利益の方へ加わるだけの事だから。そしてね、おかずは何だと思うの、毎日毎日油揚げの煮附け」
いまは外国へいった友達がはなした。私たちは「まさか!」といって笑っていたが、ある夜は、芸術倶楽部の居間を訪れての帰りがけに立寄った人が、
「大変先生も機嫌がよかった。いま一杯やるところだからと進められたが、お須磨さんが土瓶《どびん》をもっているからなんだと思ったら、土瓶でお燗《かん》をして献酬《けんしゅう》しているところだった」
細《こま》かしいことには無頓着《むとんちゃく》な須磨子の話しをした。極《ご》く最近、地方興行が当って、しかもこの次からは松竹の手で興行をするようになるので、万事そうした方の心配がなくなるというような、芸術座の前途が明るくなった話しのつづきに、
「こんどの地方興行が当ったので、島村さんもいくらか楽になったので、座の会計の都合が悪かったときに、電話を担保にしてお須磨さんから借りた金を、返そうといったらば、彼女がいうのには、あの時分より電話の価《ね》があがっているから、あれだけでは嫌だというので、それでは止めようとそのままになってしまった」
と言った。それこそ私は根もないことだろうと打ち消すと、
「ほんとなのですよ。先生は貧乏――つまり芸術座は貧乏でも、お須磨さんは財産をつくっているのです。かなりあるのです」
といいはった。奮闘克己という文字に当嵌《あてはま》った彼女だ。
二
傲慢《ごうまん》なほど一直線であった彼女の熱情――あの人の生き力は、前にあるものを押破って、バリバリとやってゆく、冷静な学者の魂に生々《なまなま》しい熱い血潮をそそぎかけ、冷凍《こお》っていた五臓に若々しい血を湧返《わきか》えらせ、絶《たえ》ず傍《かたわ》らから烈しい火を燃しつけた。彼女は掌握《つかみ》しめてしまわなければ安心することの出来ない人であった。そうするには見得《みえ》も嘲笑《ちょうしょう》も意にしなかった。そのためには抱月氏がどんな困難な立場であろうとかまわなかった。彼女の性質は燃えさかる火である、むかっ気である。彼女に逢ったときにうけた顔の印象には、すこしの複雑さも深みも見られなかった。彼女は文芸協会演芸研究所の生徒であった時分に、山川浦路さんに英文の書物のくちゃくちゃになったのを見せて、
「英語を教わって癇癪《かんしゃく》がおこったから、本を投げつけちゃった。出来ないから教えてもらうのに、良人がいくらおしえても解らないなんて言うから」
といったそうだ。抱月氏と同棲《どうせい》してからも激しい争闘がおりおりあったとかいうことである。向いあっているときはきっと何か言いあいになる。頬《ほ》っぺたへ平打《ひらう》ちがゆくと負けていないで手をあげる。そうしたことはちょっと聴くと仲が悪いようにきこえるが、喧嘩《けんか》もしないような家庭が平和で幸福があるとばかりはいえない。激しい争闘のあとに、理解と、熱い抱擁とが待っているともいえる。
「奥さんがもすこしなんだったら――坪内先生の奥様のように優しく、なにかのことを気をつけてくださるようだといいのだけれど……」
こういった須磨子は自分勝手だったかも知れない。そうはいっても須磨子自身も、先方の思いやりなどはちっとも出来ないたちで、噂だけか、それとも誠のことか、ある時抱月氏の令嬢たちに手紙をやって、これから貴女《あなた》がたは私をお母さんと思わなければなるまい、といったとか、自信も勇気も、過ぎると野猪《いのしし》のむこうみずになるが、彼女が脱線したのには一本気な無邪気さもある。かつて私はあの人の芸が、精力的《エネルギッシュ》で力強いのを畏敬《いけい》したが、粗野なのに困るという気持ちもした。感情も荒っぽいので、どうしてもあの人とならんで、も一人、繊細な感情の持主であり、音楽的波動で人にせまる、詩的《ポエティカル》な女優がなくてはならないと思っていた。陶冶《とうや》されないあの駄々《だだ》っ子《こ》は、あの我儘が近代人だといえばそうとも言われようが、気高い姿体と、ロマンチックな風致をよろこぶ女にも、近代人の特色を持った女がないとは言われない。
ひたぶるに突進んでいって、突きあたる壁のあったのをはじめて発見したのだ。彼女が勢力にまかせて押退けたおりには、奥深くへと自然に開けていった壁が――何の手ごたえもない幕のように見えた壁が、巌壁《がんぺき》のように巍然《ぎぜん》と聳《そび》えたっていて、弾《はじ》き飛ばした。彼女ははじめて目覚めて、鉄のように堅く冷たい重い壁を繊手《せんしゅ》をのべて打叩《うちたた》いて見た。そしてその反響は冷然と響きわたり、勝手にしろと吼《ほ》えた。そのおりには、もう彼女の住む広い胸はなかった。底知れなかった愛人の情をしみじみとさとり知ったおり、そこに偉大な人格を偲《しの》ばなければならなかった。
傲慢な舞台、中ごろが一番激しかった。ことに幕切れなどは、傍若無人《ぼうじゃくぶじん》という難をまぬがれないおりもあって、見ていてさえハラハラしたものである。女王に隷属するのは当り前ではないかといった態度が歴然としていた。最後までそれで通して行こうとしたのが、何か気が阻《はば》んだのだ。一本気だけに絶望の底は深かった。
彼女が大層|他人《ひと》当りがよくなったという事を聴いたのもかなり前のことで、抱月氏のお通夜《つや》の晩に、坂本|紅蓮洞《ぐれんどう》の背中を、立ったまま膝《ひざ》で突つくものがある。冬のはじめの、夜中のこととて、紅蓮さんは暖まるものを飲んでいた一杯気嫌で、
「誰だ」
と強くいって振りむいて見ると、須磨子がうつむき加減に見おろしていて、
「どいてくれない?」
その座にかわっていたいのだという。末席の後の方だったので、やっぱり棺の側にいた方がよかろうというと、
「でも、あの女が私の方ばかりじろじろ見ているのだもの」
と島村未亡人の方を指差したということである。我儘ものだが、どこかにしおらしい、自分から避ける心持ちも持っていたのである。
でも彼女は、島村氏の令嬢たちが芸術座へ生計費《せいかつひ》を受取りに来たとき優しくは扱わなかった。門前払い同様にしたといわれ、ずっと前の家では格子戸《こうしど》を閉《た》てきり、水をぶっかけようとしたこともあるという。それは
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