松井須磨子
長谷川時雨
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)黄昏時《たそがれどき》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)名|宛《あて》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)むき[#「むき」に傍点]
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一
大正八年一月五日の黄昏時《たそがれどき》に私は郊外の家から牛込《うしごめ》の奥へと来た。その一日二日の私の心には暗い垂衣《たれぎぬ》がかかっていた。丁度黄昏どきのわびしさの影のようにとぼとぼとした気持ちで体をはこんで来た、しきりに生《せい》の刺《とげ》とか悲哀の感興とでもいう思いがみちていた。まだ燈火《あかり》もつけずに、牛込では、陋居《ろうきょ》の主人をかこんでお仲間の少壮文人たちが三五人《さんごにん》談話の最中で、私がまだ座につかないうちにたれかが、
「須磨子《すまこ》が死にました」
と夕刊を差出した。私はあやうく倒れるところであった。壁ぎわであったので支《ささ》えることが出来た。それに何よりもよかったのは夕暗《ゆうやみ》が室《へや》のなかにはびこっていたので、誰にも私の顔の色の動いたのは知れなかった。死ねるものは幸福だと思っていたまっただなかを、グンと押して他《ほか》の人が通りぬけていってしまったように、自分のすぐそばに死の門が扉《とびら》をあけてたおりなので、私はなんの躊躇《ちゅうちょ》もなく、
「よく死にましたね」
と答えてしまった。みんな憮然《ぶぜん》として薄ぐらいなかに赤い火鉢の炭火を見詰めた。
「でも、ほんとに死ねる人は幸福じゃありませんか? お須磨さんだって、島村先生だから……」
すこし僭越《せんえつ》な言いかたをしたようだと思ったので私はなかばで言いさした。私は須磨子の自殺の原因がなんだかききもしないうちから、きくまでもないもののように思っていた。
「彼女が芸術を愛していれば死ねるものではないだろうに……死ななくったって済むかと思われますね。財産もあるのだというから外国へでも行けば好いに」
電気が点《つ》くと、そう言った人のあまり特長のない黒い顔を見ながら、この人は恋愛を解さないなと思った。一本気で我執のかなり強そうだったお須磨さんは、努力の人で、あの押《おし》きる力は極端に激しく、生死のどっちかに片附けなければ堪忍《がまん》できないに違いない。
「とにかくよく死んだ。是非はどうとも言えるが、死ぬものは後《あと》の褒貶《ほうへん》なんぞ考える必要はないから」
と言うものもあった。死んだという知らせを電話で聞いて、昂奮《こうふん》して外へは出て見たが何処へいっても腰が座《すわ》らないといって、モゾモゾしている詩人もあった。けれど、みんな理解を持っているので、芳川鎌子の事件の時なぞほど論じられなかった。
「島村さんの立派な人だったってことが世間にもわかるだろう。須磨子にもはっきりと分ったのでしょう」
そんなことが繰返えされた。全く彼女は、島村さんの大きい広い愛の胸に縋《すが》り、抱《だか》かれたくなって追っていったのであろうと、私は私で、涙ぐましいほど彼女の心持ちをいじらしく思っていた。
連中が出ていってしまってからも私はトホンとして火鉢のそばにいた。生《いき》ている悩みを、彼女も思いしったのであろう。種々《さまざま》な、細《こま》かしい煩《うる》ささが彼女を取巻いたのを、正直でむき[#「むき」に傍点]な心はむしゃくしゃとして、共にありし日が恋しくて堪えられなくなったのであろうと思うと、気がさものばかりが知るわびしさと嘆きを思いやり、同情はやがて我心の上にまでかえって来た。
抱月《ほうげつ》氏のおくやみにいったのも、月はかわれど今夜とおなじ時刻だと思いながら、偶然におなじ紋附きの羽織を着て来たことなどを気にして芸術倶楽部の門を這入《はい》った。秋田氏に導かれて奥の住居の二階へといった。抱月氏のおりには芸術座の重立《おもだ》った人はみんな明治座へ行っていたので、座員の一人が、
「松井が帰りましたら申伝えます」
と弔問を受けたが、いるべき人がいないので淋しかった。それがいま、突然の死に弔らわれる人となろうとは夢のようだと思いながら案内された。旧臘《きゅうろう》解散した脚本部の人たちの顔もみんな見えた。誰れもかれも落附かないで、空気が何処となく昂奮していた。
居間の前へくると杉戸がぴったりと閉切《しめき》ってあった。室内では死面《デスマスク》をとっているのであった。次の室にも多くの人がいた。手前の控室のようなところには紅蓮洞《ぐれんどう》氏がしきりに気焔《きえん》をあげていた。杉戸が細目に中から開《あ》けられて、お湯が入用だといったときに、座員の一人は紫色の瀬戸ひきの薬罐《やかん》をさげていった。洗面器が入用だというと身近く使われていたらしい女中が「先生のときに一つつかってしまって、一つしかないのだけれど」と、まごまごしていると、室のなかから水をなみなみと入れた洗面器をもちだして来てあけにいった。
(あの人の死骸《しがい》はこの杉戸一枚の向うにある)
引締った心持ちで佇《たたず》んでいると、頭の底が冷たくなって血が下へばかりゆくような気がした。何やら面倒な問題があったと噂《うわさ》された楠山《くすやま》氏が側へ来たが、
「死ななくってもよかったろうと思うのですが……」といって、「これから郊外へかえるのは大変ですね」と話題をそらした。
洗面器のことで呟《つぶ》やいていた年増《としま》の女中は杉戸の外にしゃがんでいたが、秋田さんが気附いたように、
「何か棺のなかへ入れてやるものでもないですか? 好きなものであったとか、大事にしていたものであったとか……忘れてしまうといけないから」
というのに、ろくに考えもせずに、
「お浴衣《ゆかた》が着せてありますから、あの上へ経《きょう》かたびらを着せればよいでございましょう。時計だの指輪だのというものは、かえってとってあげたほうがよろしいでしょうよ。ああしたお方でしたから。島村先生の時にはお好きだからって、あの方が林檎《りんご》とバナナをお入れになりました。ですから蜜柑《みかん》のすこしも入れてあげたらよろしゅうござりましょう」
と無ぞうさな事を言っていた。
素朴なのは彼女の平常であったかも知れないが、名を残した一代の女優の、しかも若く、美しく、噂の高かったロマンスの主であり、恋愛に生きた日を慕って、逝《い》った人を葬むるのに、そんな無作法なことってないと腹立《はらだた》しかった。こんな女に相談をかけるとはと、秋田氏をさえ怨《うら》めしく思った。死んだ女は詩のない人であったが、その最後は美しく化粧《けわい》して去《い》ったというではないか、私は彼女に、第一の晴着《はれぎ》が着せたかった。思出のがあるならば婚礼の夜の衣裳といったようなものを、そしてあるかぎりの花で彼女の柩《ひつぎ》のすきまは埋めたかった。諸方から来る花環は前へ飾るよりも、崩《くず》して彼女の亡骸《なきがら》に振りかけた方がよいに、とも思った。
(親身でもないに立入ったことは言われない)
そう思ったときに、生々としていて、なんの苦悶《くもん》のあともとめない死顔が目に見えるようであった。暗い寒い静かな明方《あけがた》に、誰れも気づかぬとき、床の間の寒牡丹《かんぼたん》が崩れ散ったような彼女の死の瞬間が想像され、死顔を見るに堪えなくなって暇《いとま》を告げた。
秋田さんは玄関まで連立って来ながら、
「あすこへね、あすこから卓《テーブル》と椅子《いす》を持っていって、赤い紐《ひも》で縊《くび》れたのです。ちゃんと椅子を蹴《け》ったのですね息をのんだと見えて口を閉じていたし、それは綺麗な珍らしい死方だそうです」
こういうおりに送り出されるのは忌むのが風習ではあるけれど、話しながら送りだされてしまった。
私は道を歩きながら彼女に逢ったおりの印象を思いうかべていた。舞台外では幾度と逢ったのではないが、いつでもあの人はキョトンとした鳩《はと》のような目附きで私の顔を眺めていた。文芸協会の生徒の時分もそうであったし、芸術座の女王《クイン》、女優界の第一人者となってからもそうであった。貞奴《さだやっこ》が引退興行のときおなじように招かれて落ち合ったおり、野暮《やぼ》なおつくりではあるが立派な衣裳になった彼女は飾りけのないよい夫人《おくさん》であった。田村俊子《たむらとしこ》さんが、
「何故《なぜ》挨拶《あいさつ》しないのよ。だまって顔ばかり見ていてさ。一体知っているの知らないの」
こう言っても、やっぱり丸い眼をして――舞台で見るのとはまるで違う、生彩のない無邪気な眼をむけて、だまって、度外《どはず》れた時分にちょいと首を傾《かし》げて挨拶とお詫《わび》とをかねたこっくり[#「こっくり」に傍点]をした。それが私には大変よい感じを与えたのであった。可愛いところのある女だと思った。
自分のことと須磨子の事件とがひとつになって、新聞を見ていても目の裏が火のように熱く痛くなった。彼女が臨終七時間前に撮《うつ》したという「カルメン」の写真は、彼女の扮装《ふんそう》のうちでもうつくしい方であるが、心なしか見る目に寂しげな影が濃く出ている。どうした事かそのおりばかりは、写真を撮《と》るのを嫌がって泣いたのを、例の我儘《わがまま》だとばかり思って、誰れも死ぬ覚悟をしている人だとは知らないので、「そんな事をいわないで」といって無理に撮らせてもらったのだというが、死の前に写した、珍らしい形見の写真になってしまった。きっと彼女の目のなかは、焼けるように痛かったであろう。抱月氏の逝去《せいきょ》された翌日、須磨子は明治座の「緑の朝」の狂女になっていて、舞台で慟哭《どうこく》したときの写真も凄美《せいび》だったが、死の幾時間かまえにこんなに落附いた静美をあらわしているのは、勇者でなければ出来得ない。私は須磨子を生活の勇者だとおもう。
――誰れの手からも離れてゆくこの女の行途《ゆくて》を祝福して盛んにしてやりたいから、という旧芸術座脚本部から頼まれた須磨子のための連中は、七草の日に催されるはずであった。けれどもう見ることは出来ない。芝居の大入りつづきのうちに一座の女王《クイン》が心静かに縊《くび》れて死んでしまうということは、誰れにも予想されない思いがけない出来ごとであって、幾年の後、幾百年かの後には美しい美しい伝奇として語りつたえられることであろう。
その最後の夜、須磨子としては珍らしく白《せりふ》を取り違えたり、忘れてしまったりして、対手《あいて》をまごつかせたというが、そんなことは今まで決してない事であった。舌がもつれて言いにくい様子を不思議がったものもあった。カルメンの扮装をしたままで廊下にこごみがちに佇《たたず》んでいたというのは、凝《じっ》としては部屋にいられなかったのでもあったろう。そしてホセに刺殺されるところは真にせまっていたが、なんとなく悦んで殺されるようで、役柄とは違っていたという。
内部のある人のいうには、一体に島村先生に別れてからは、芝居のいき[#「いき」に傍点]が弱くなって、どうもいままでの役柄にあわなくなっていた。ことに今度のカルメンなどは、彼女に最も適した漂泊女《ジプシイ》の女であり、鼻っぱりの大層強い性格で、適役《はまりやく》でなければならないのに、どうもいき[#「いき」に傍点]が弱かったと言った。
彼女は死ぬ幾日かまえに、
「あなたはもっと真面目《まじめ》に人生を考えなければいけませんよ」
といわれたときに、
「今にほんとに真面目になって見せますよ」
と答えた。もうその時分から死ぬことについて考えていたのかもしれなかった。カルメンの唄《うた》う調子が低くって音楽にあわなかったというが、その心地をぽっちりも洩らすような友人のなかったのが哀れでならない。
後からきけば種々《いろいろ》と、平常《ふだん》に変ったことが多くあったのである。抱月氏でなくとも、彼女を愛する肉親か、女友達があっ
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