てるんだから、よく覚えてくれなけりゃあ、しようがない。」
 そら、お談議になったと、静枝がかしこまって、閉口《へいこう》しかけているところへ、
「今日《きょう》、お髪《ぐし》、お染めになりますか。」
と、風呂《ふろ》の支度をする女中がききに来たので、静枝は、やれ助かったとホッとした。

       二

 ――降り出した雨。
 ト、舞台は車軸を流すような豪雨となり、折から山中の夕暗《ゆうやみ》、だんまり模様よろしくあって引っぱり、九女八役《くめはちやく》は、花道|七三《しちさん》に菰《こも》をかぶって丸くなる。それぞれの見得《みえ》、幕引くと、九女八起上り合方《あいかた》よろしくあって、揚幕《あげまく》へ入る――
 蚊のなくように、何時《いつ》、どこで、なんの役でかの、狂言本読みの、立《たて》作者が読んできかす、ある役の引っこみの個処《ところ》が、頭の奥の方で、その当時聴いた声のままで繰返してきこえる。それについて、その役の、引っ込みの足どりまで、九女八は眼の前の、庭の雨を眺めながら、考えるともなく考えているのだった。
 ――はて、この役は、女だったかな、男だったかな――
 ながい舞台生活は、華やかなようでも、演《や》る役は、普通生活とおなじで、そうそう他種類はない。自分についた持役《もちやく》は大概きまっていて、柄にない役はもってこないのだが、どうしたことか、今考えている役がなんだか、九女八には思いだせない、それに、なんでも思い出さなければならないことでもない。と、そう思うかげに、ながい間役者をしたが、とうとう、団十郎《ししょう》と一つ舞台に並べなかったという、何時も悲しむさびしさが、心の奥を去来していた。
「あたしは、考えかたが、間違ってた。」
 九女八は、鷺草の、白い花がポツポツと咲き残るのへ降る雨が、庭面《にわも》を、真っ青に見せて、もやもやと、青い影が漂うようなのに、凝《きっ》と心をひかれながら、呟《つぶや》いた。
「なにがよ。」
 芸者や、役者の配り手拭《てぬぐい》の、柄の好いのばかりで拵《こしら》えた手拭浴衣を着て、八反《はったん》の平《ひら》ぐけを前でしめて、寝ころんだまま、耳にかんぜよりを突ッこんでいた台助が、腑《ふ》におちない顔をした。
「なんてって――」
 九女八は、まだ、素足《すあし》の引っこみの足どりの幻影《かげ》を、庭の、雨足のなかに追
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