、眞つ赤に逆上《のぼ》せ、一たいにデリカな性質なのを知つてゐるので、私の方が案じてゐたのだが、彼は考へ深くさう答へた。
 この優しい氣持のひとり息子は、皮膚も人並より弱いので、彼の母親は、先達てからしきりに太陽燈をかけさせてゐた。外科の博士である彼の父は、健康増進の注射を、毎晩手づからしてやつてゐた。兵隊になつたら強く――國を辱しめるな、といふのが、何處の親にも共通した心持であらうが、親々の氣持は複雜であらう。
 あたしはまた、預つた甥が、病弱な母の體から生れ來て、生後六十日目に、膓捻轉をしたりして、不思議に助かりはしたが、ありとある病氣といふ病氣に、抵抗力のなかつた彼が、元氣な、ガツシリとした體となつて、非常時の今日、國を守る兵の一人となつてくれた、その廿五年間を飛越して、早く死歿《なくな》つた彼の若い母が、彼を生んだとき私の手を握つて、しぼるやうに陣痛をこらへたので、あたしの中指にはめた指輪がまがつて、指と指の間にはさまり、ダイヤが次の指の肉に喰込んでしまつた痛みを、ふと思ひ出しもするのだつた。
 若い母親が、これ一ツを殘すために生れて來たやうな、短い一生涯を果すと、わたくしは、わたくしの手に殘された、弱い子の行末までも思ひふけつたものだつた。彼が二ツ三ツのをり(たしか青島が陷ちた時)ある日私は車の上で、この病弱な幼兒もいつか戰があればと、輕い子を持上げて見たが、人世、すべてが戰場、鐵砲玉ばかりが怖いものではないと、心で呟いた。
 その觀念が、彼を入隊させる日まで續いてゐたことをたしかめて、私は妹を見ると、その自若《じじやく》たるに安心した。そして、何處の家も、兵士を出すうちの母の心の、堪へしのぶ強さ、けなげさを思ひやるばかりだつた。いまも心に叫ぶのは、人々よ、母をいたはれといふこと、戰線に送る慰問袋は、故國日本の母をも悦ばすであらうといふことである。



底本:「隨筆 きもの」實業之日本社
   1939(昭和14)年10月20日発行
   1939(昭和14)年11月7日5版
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年1月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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