代目|守田勘弥《もりたかんや》を、子供の時分からその道に暁通《ぎょうつう》するように育てた。
 その人が、演劇道に有名な守田勘弥という策士で、明治維新後の情勢を見て、帝都の中心地となる京橋へ劇場進出を目論《もくろ》んだ。元来木挽町は、以前の土地ではあるし、木挽町へ劇場を建てようという運動は、それよりも一足さきに、これもおなじ土地にあった河原崎座《かわらざきざ》が采女《うねめ》が原《はら》へ新築許可を願い出ていた。これはたぶん、目下《いま》の歌舞伎座の辺《あたり》であったろう。――河原崎座主、河原崎|権之助《ごんのすけ》は、九世団十郎が、市川|宗家《そうけ》に復帰しない、養子にいっていた時の名――現今《いま》でもあのあたりは、歌舞伎座、東京劇場、新橋演舞場が鼎立《ていりつ》している。
 守田座移転は明治四年だというが、新富町新富座という、堂々たるものになったのは、九年|霜月末《しもつきすえ》に焼けてから再築し、十一年春に、西南戦争を上演して大入《おおいり》をとってからだ。
 明治十年の西南戦争は、明治政府の功臣たちの間の争いであり、兵の組織も新式になってからであるから、薩南《さつなん》の
前へ 次へ
全63ページ中25ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング