ど》の夢の賤夫《しずのお》と、翠扇役の夢に王妃となる奴婢《みずしめ》とが、水辺《みずのほとり》に出逢うところの打合せをした。猿之助の父は段四郎で踊りで名の知れた人、母のこと女《じょ》は花柳《はなやぎ》初代の名取《なとり》で、厳しくしこまれた踊りの上手《じょうず》。この二人が息子のために舞台前に頑張《がんば》っている。鼓村さんは息子が踊りで叱《しか》られるのまでハラハラして、その方へ気をつかうので、琴柱《ことじ》をはねとばしたりした。
「おや、おや、どうも。この方が乱れて――」
と、温厚な段四郎は、微笑しながら飛んだ琴柱を拾いに立った。可愛らしい鼓村は、大きな、入道《にゅうどう》のような体で恐縮し、間違えると子供が石盤《せきばん》の字を消すように、箏の絃《いと》の上を掌《てのひら》で拭《ふ》き消すようにする。
浜子の方に狂いはない。その日の帰りに、千束町を出ると夜暗《よやみ》の空に、真赤な靄《もや》がたちこめて、兀然《こつぜん》と立ちそびえている塔が見えた。
「あれは、なんだろう。」
私は、すこしぼんやりしていて、見詰めて立ちどまった。
「公園裏の方にあたるから――十二階でしょうよ。」
「ああ、凌雲閣《りょううんかく》?」
まあ、なんて綺麗なのだろうと、二人は夜の、浅草公園の裏から見る、思いがけない美観に見とれた。
――楽劇「浦島《うらしま》」!
私の頭のなかに、いつか手をつけて見たい、大きな望みがその時、かすめて過ぎた。
楽劇「浦島」の一部分上演を、坪内先生から許されたのは、それから二、三年|後《のち》だった。
浦島は六代目菊五郎、狂言座第一回を帝劇で開催するときだった。
作には、箏《こと》の指定はないのだ。各種の三味線楽と、雅楽類だったのだが、私は、おゆるしをうけて、浜子の箏を主にして、三味線は一中節《いっちゅうぶし》の新人西山|吟平《ぎんぺい》、雅楽は山之井《やまのい》氏の一派にお願いしようとした。
だが、なんといっても箏の浜子を説きおとすことが一番の難関なのだ。
わたしはぶらりと行って、なんでもないような顔をして、彼女を散歩に引き出した。伊勢山《いせやま》の太神宮《だいじんぐう》の見晴しに腰をかけた。
「何をそんなに眺めているの。」
「海を。」
彼女は、何かわたしが計画《たくら》んでいるなと見破っていた。わたしが突然に行って、歩こうなぞということから例外すぎるのだったから。
「海なら、佃《つくだ》からでも、あたしの宅《うち》の座敷からも見えるのに。」
「うん、でも、歩いて見たかったの、芒村《のげむら》から、横浜|新田《しんでん》を眺めた、昔の絵が実によかったものだから。」
そんなことつけたりで、先刻《さっき》、横浜駅前の(現今の桜木町《さくらぎちょう》駅)鉄《かね》の橋を横に見て、いつもの通り、尾上町《おのえちょう》の方へ出ようとする河岸《かし》っぷちを通ると、薄荷《はっか》を製造している薄荷の香《にお》いが、爽快《そうかい》に鼻をひっこすった、あのスッとした香《か》を思いだして、私は一気に言った。
「坪内先生の浦島ね、竜宮のところだけ、作曲してもらいたいの。」
「だめ、だめ。」
浜子は強い近眼鏡を光らして、呆《あき》れたように、
「あなたは、あたしを買いかぶりすぎている。」
「いいえ、臆病だとさえ思っている。他《ほか》の人は、七、八|分《ぶ》もった才能を、十二分にまで見せている。浜子さんは、十二分にもっているものを、一、二|分《ぶ》しか見せない。それも、よんどころない時だけにね、けちんぼ。」
それっきりで、二人は黙りあって、いつまでも腰をかけていた。日が暮れかかると、どっちからともなく立って歩きだしたが、口はきかない。
三
日はすっかり暮れかけていた。黙ってさきへ立って、浜子が導びいた広間のうちは、一層たそがれの色が濃かった。
浜子は、壁によせて立ててある「吹上《ふきあ》げ」という銘《な》のある箏《こと》に手をかけていた。「吹上げ」の十三本の絃《いと》の白いのが、ほのかに、滝が懸かったように見えている。
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吹上げの浜の白《しら》ぎく
さしぐしの夕月に――
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とか、なんとか、わたしが即興詩を与えたことがあったが、その、朝と夕べとの小曲の作曲が、どうも気に入らないといって、どうしても聴かせてくれないので、わたしも、その歌を忘れてしまっている箏だった。
浜子は言った。
「調子は?」
それは、やるともやらないとも、返事を口にしないが、たしかに「浦島」の作曲についていっているに違いなかった。
「変えなければいけないでしょう、今までになかったのでもよろしい。そして、音を複雑にするために、高いのと低いのがほしい。以前《もと》からある
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