いう踊りの地方《じかた》の稽古所《けいこじょ》に、この二階をかりてあてた。
 試演は歌舞伎座で催すのだが、沢山の人を集めた和楽オーケストラなので、広い場所でなくっては稽古が出来ない。この丸五の二階で、幾日も幾日も、みんながお弁当を食べた。
 主として箏《こと》をもって、この歌劇風の「空華」の気分を出そうという最初の試みなので、作曲者の鈴木鼓村氏は、私の母がいる箱根へいって、頭を冷し、気分を統一して、そして漸《ようや》く出来あがったのだった。
 それを創意のまま鼓村さんが弾《ひ》くのを、受取ってくれるのが浜子であった。彼女は、一度聴いていて、膝《ひざ》の上で右の薬指を軽く打っているが、直《じき》に正確な譜にうつした。鼓村さんは弾いてしまうと、その次には、例の、気分によって弾奏の手がちがうのだった。
 末《すそ》の方へいって伴奏に三味線がはいるのを、長唄《ながうた》研精会の稀音家和三郎《きねやわさぶろう》が引きうけていた。少壮気鋭だった三味線楽家は、この試みが愉快でならないのだが、そんなふうで、鼓村さんとは合せるたびに、ぴったりしていたのがそう行かなくなる。
 箏《こと》の方の弾手《ひきて》も多い。長唄三味線の方も多い。歌は、音蔵《おとぞう》という立唄《たてうた》いの人の妹で、おかねちゃんという、それは実に好《い》い声の娘と――その人は惜しくも亡くなったが――その姉さんとが主であった。岡田八千代さんも箏の方を助けてくれた。
 とにかく、私の友達は、この仕事にみんな手つだってくれた。踊りの方は市川猿之助が主役、女の方の主役は、堀越|実子《じつこ》――市川|翠扇《すいせん》という女優の名で出演し、七人《ななたり》の舞女《ぶじょ》は、そのころの新橋七人組といわれた、小夜子《さよこ》、老松《おいまつ》、秀千代《ひでちよ》、太郎、音丸《おとまる》、栄竜《えいりゅう》、たちだ。この組はこの組で、浅草|千束町《せんぞくちょう》の市川段四郎氏自宅の舞台と、歌舞伎座案内所の表二階とで稽古《けいこ》していた。
 楽座の方は、曲の打合せが重なるほど、面白い出来ごとがあった。とうとう、ある日、箏と三味線の正面衝突となって、和三郎がカンカンに怒り出す。鼓村さんは、幾杯もコップの水を呑《の》んだが、それでも熱して、そら豆のゆでたのを盛った大どんぶりのからになったのに、これに水をくれといって、水が運ばれた来たのも知らずに弾いていたが、
 ――そんなこというて、わしゃあ――
と、言うが早いか、どんぶりの水を口にもってゆかずに、一、二|分《ぶ》苅《ぶ》りの赤い熱頭《にえあたま》の上へ、こごんだまま、ザブッとぶっかけてしまった。
 箏の上である。夕立ちのように水は落ちた。それも知らないで彼は熱中している。和三郎は小腕をまくって、ブルブル慄《ふる》えながら、冷静をとりもどそうとして、煙管《キセル》に火を点《つ》けたが、のぼせているので火皿《ほざら》の方を口へもっていった。
 みんな、座中のものは、びっくりしたように、おかしさもおかししではあるが、気の毒さで押だまってしまっていた。
 と、その時、その騒ぎと引き離れて、膝《ひざ》の上に箏尻《ことじり》を乗せ、片手で懐紙に書いた譜を見ながら弾きだしたのは浜子だった。彼女は、喧嘩《けんか》には捲《ま》きこまれず、両方の言い分をきいて、両方の譜を、その争いのなかからうつしとって、合うように接合してしまっていた。
 浜子が弾きだすと、和三郎は煙草を止《や》め、鼓村も弾く手を伏せて聴いた。
「あ! それなら好《い》い」
 そう叫んだのは和三郎だ。
「ああ、そや、そや。なんじゃ、それじゃったわい。」
と、鼓村さんも叫んだ。
 みんなの顔に、ホッとしたくつろぎが浮び、同時に誰も彼もの笑いが爆発した。
「なんのこった。」
と、呟《つぶや》きながら、和三郎は三味線をとって、浜子の方へ、せわしなくむき直った。鼓村さんは、例の首をひっこめて、きまりわるそうに、箏にかかった水の始末を、弟子たちにしてもらった。
 みんなが、急に景気よく、しゃべったり笑ったり、揶揄《やゆ》したりするなかで、浜子だけは、別天地にいる人のように、すこしも動揺されず、直《じき》に最後《しまい》まで完全につくりあげてしまった。
「ほんのこというと、まだよう、まとまっていなかったのじゃ。」
 鼓村さんは、自分だけでなら、どんなふうにも弾けるので、癖になってしまってて、困ると自分でこぼして、気持ちが軽々《かるがる》したように、
「浜子さん、有難う有難う、助かったわい。」
と機嫌よく言った。
 その時、わたしは、浜子は、ひっこみ思案なのだが、大きなものの作曲も出来ると信じた。
 千束町の喜熨斗《きのし》氏の舞台へ、私と、浜子と鼓村さんと翠扇さんとが集った時、猿之助役の大臣《おと
前へ 次へ
全16ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング