員となられたのだが、今度は、その松岡さんが随分お疳癪《かんしゃく》で、日文《ひぶみ》、矢ぶみで、わかるのは君だけだろうという詰問状がぞくぞくと来た。ずっと後《のち》になってから、
「わたしも年をとったから、もう疳癪はおこさないが、時雨《しぐれ》さんの疳癪もたいしたもんだ。」
なぞといわれたが、過日、『源氏物語』劇化について、随分お骨折なされたにもかかわらず、良い結果を見なかったあとで、氏の顔を見た時に、当局の許可不許可にかかわらず、芝居道というものがどんなもので、疳癪を起してもどうもならないということを、さぞ不味《ふみ》にお味《あじわ》いになったことも多かったろう、当年の疳癪など、芸術家としての疳癪で、むしろ、思出は悪くないと思った。
が、そういう大規模の中幕《なかまく》「浦島」の竜宮での歓楽と、乙姫との別れの舞踊劇は、浦島の冠《かむ》りものとか、履《くつ》とかあまりに(奈良朝期の)実物通りによく出来たので、首が動かせずさすがの菊五郎も踊れなくなってしまったりして、箏の作曲の評判はすばらしくよかった。
*
「浜子さん、あなたは、自分の箏を、もっと生かして見る気はない。」
病弱であった私は、何かしら、精一ぱいのことをしていなければ、生きている気のしない気質《たち》だったので、躯《からだ》の弱い彼女に、生きているかぎり、力一ぱいのものを残させたい気がして、ある日、差向いでいるときに言った。
「それは、願うことだけれど、――出来るかどうか。」
そんなこんなで、彼女の箏曲を聴いてもらう会をつくるようになった。麹町《こうじまち》区|有楽町《ゆうらくちょう》の保険協会の地下室の楽堂で、大正九年に開催したのがはじめで、震災の年まで三回つづいた。私は文壇の人に主《おも》にお出《いで》を願った。
浜子は、彼女の耳で、彼女の心で、鈴木鼓村の箏曲を認め師事したが、彼女はいちはやくも、朝鮮から帰り、上京したての宮城道雄《みやぎみちお》を若き天才と許していた。であるから、この浜子の箏を聴く会の、第一回だか二回目だったかの時、宮城氏に助演を乞《こ》うて、「唐砧《からぎぬた》」のうちあわせは、真に聴きものだった。会が終ると、彼女は眼の暗い宮城氏の手をとって、それは実に幸福そうに自動車へ導いていった。そして、花束を傍《かたわら》におきそのまま宮城氏を送っていった。
浜子を
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