いうことから例外すぎるのだったから。
「海なら、佃《つくだ》からでも、あたしの宅《うち》の座敷からも見えるのに。」
「うん、でも、歩いて見たかったの、芒村《のげむら》から、横浜|新田《しんでん》を眺めた、昔の絵が実によかったものだから。」
 そんなことつけたりで、先刻《さっき》、横浜駅前の(現今の桜木町《さくらぎちょう》駅)鉄《かね》の橋を横に見て、いつもの通り、尾上町《おのえちょう》の方へ出ようとする河岸《かし》っぷちを通ると、薄荷《はっか》を製造している薄荷の香《にお》いが、爽快《そうかい》に鼻をひっこすった、あのスッとした香《か》を思いだして、私は一気に言った。
「坪内先生の浦島ね、竜宮のところだけ、作曲してもらいたいの。」
「だめ、だめ。」
 浜子は強い近眼鏡を光らして、呆《あき》れたように、
「あなたは、あたしを買いかぶりすぎている。」
「いいえ、臆病だとさえ思っている。他《ほか》の人は、七、八|分《ぶ》もった才能を、十二分にまで見せている。浜子さんは、十二分にもっているものを、一、二|分《ぶ》しか見せない。それも、よんどころない時だけにね、けちんぼ。」
 それっきりで、二人は黙りあって、いつまでも腰をかけていた。日が暮れかかると、どっちからともなく立って歩きだしたが、口はきかない。

       三

 日はすっかり暮れかけていた。黙ってさきへ立って、浜子が導びいた広間のうちは、一層たそがれの色が濃かった。
 浜子は、壁によせて立ててある「吹上《ふきあ》げ」という銘《な》のある箏《こと》に手をかけていた。「吹上げ」の十三本の絃《いと》の白いのが、ほのかに、滝が懸かったように見えている。
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吹上げの浜の白《しら》ぎく
さしぐしの夕月に――
[#ここで字下げ終わり]
 とか、なんとか、わたしが即興詩を与えたことがあったが、その、朝と夕べとの小曲の作曲が、どうも気に入らないといって、どうしても聴かせてくれないので、わたしも、その歌を忘れてしまっている箏だった。
 浜子は言った。
「調子は?」
 それは、やるともやらないとも、返事を口にしないが、たしかに「浦島」の作曲についていっているに違いなかった。
「変えなければいけないでしょう、今までになかったのでもよろしい。そして、音を複雑にするために、高いのと低いのがほしい。以前《もと》からある
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