とは中《ちゅう》茶屋も廃した。間口《まぐち》の広い、建築も立派な茶屋だけ残したのだから、華やかなはずだった。
 つい十年ほど前の、旧幕時代には、芝居者は河原乞食と賤《いや》しめられ、編笠《あみがさ》をかぶらなければ、市中を歩かせなかったという。差別待遇が甚《はなはだ》しかったため、七代目団十郎(隠居して海老蔵《えびぞう》、白猿《はくえん》と号す)は、
[#ここから4字下げ]
錦《にしき》着て畳の上の乞食かな
[#ここで字下げ終わり]
と白《もう》したほどのばからしさが、新富座開場式には、俳優の頭領市川団十郎をはじめ、尾上菊五郎、市川左団次から以下、劇場関係者一同、フロックコートで整列し、来賓には、三条|太政大臣《だじょうだいじん》を筆頭に、高級官吏、民間名士、外国使臣たちまで招待したのだった。
 それからの新富座は、外賓接待には洩《も》らされない場処《ところ》となって、ドイツ皇孫ヘンリー親王の来朝の時から、我国の宮殿下方《みやでんかがた》もお揃《そろ》いにて成らせられ、その時の接待係は、鍋島《なべしま》、伊達《だて》の大華族であり、そのあとへは香港《ホンコン》の太守《たいしゅ》、その次へは米国前大統領グラント将軍という順に、国賓たちを迎えた。
 欧風熱は沸騰して、十二年の九月には、外国役者の一座、英、米、仏人混合の一座をかけたりしたが、言葉がわからないので一般には不向きで不入りだったという、種々《いろいろ》の経緯はあったが、新富座は劇道人の向上にはたいした役割をもった。その後、麻布鳥居坂《あざぶとりいざか》の井上邸で、天覧芝居という、破天荒の悦びをもつことになったのだ。
 読者は、本文と、関係もなさそうなことを、なんで長々と書いているのだと、お思いになるかもしれない。この辺で、閑話休題と書くところなのだろうか、実はなかなか閑話休題どころではない。
 明治十二、三年から、浜子の生れた十四年以降の、劇界の開展は、こんな時代だったのだが、すべての世の中も、またこんなふうな発展進歩の途《みち》をとっていた。新富座主が新機運を掴《つか》んだ機智と並んで、劇界の大明星であった、九世市川団十郎の人格、識見――伝統的|大立物《おおだてもの》の風格が、当時の学者、識者、貴顕たちに、自分たちの埒外《らちがい》の分野から同格者を見出《みいだ》した欣《よろこ》びを以《もっ》て尊敬し迎えいれ
前へ 次へ
全32ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング