られたことが見|逃《のが》せない。団洲とよび、三升《さんしょう》とよび、堀越《ほりこし》と呼び、友達づきあいの交わりを求め許した。そして、団十郎以外にも、彼にならんで名人菊五郎のあることも知った。
「勧進帳」その他が、明治天皇陛下、皇后宮《あきのみや》、皇太后の宮と、天覧につづき台覧《たいらん》になったことは、劇界ばかりではない、諸芸の刺戟《しげき》になったのだ。ことに、堀越家とは姻戚《いんせき》に、荻原《おぎわら》浜子の母方はなっている。浜子が八歳の明治廿一年には、末松青萍《すえまつせいひょう》氏たちの演劇改良の会が(末松氏は伊藤|博文《ひろぶみ》の婿)「演芸矯風会」に転身して、七月八日に発会式を、鹿鳴館《ろくめいかん》で催し、来賓は皇族方をはじめ一千余名の盛会で、団十郎氏令嬢の、実子《じつこ》と扶貴子《ふきこ》が、浜子とあまりちがわない年齢で、税所敦子《さいしょあつこ》――宮中女官|楓《かえで》の内侍《ないし》――の作詞を乞《こ》い、杵屋正次郎《きねやしょうじろう》夫妻の節《ふし》附け、父団十郎の振附けで踊っている。
 ここに、見逃せない事実は、女性進展の機運が、著るしくみなぎって、こうした方面にも、立《たて》ものの娘だからということばかりではなしに、女優というのが、なくてはならないと、たとえ泰西《たいせい》の模倣そのままでも、論じられていもしたのだ。
 そんなことを細かく言っていたらば、一篇の、風俗史的な女性発展史になってしまうから、それこそ閑話休題であるが、面白いのは、新富座が越して来て間もない、明治八年ごろの、築地《つきじ》風俗に、こんな日常時|小話《しょうわ》がある。
 当時の新聞からとって見ると、
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雪の肌《はだえ》に滴々《てきてき》たる水は白蓮《びゃくれん》の露をおびたる有《あり》さま。
艶々《つやつや》したる島田髷《しまだまげ》も少しとけかかり、自由自在に行きつもどりつして泳ぐさまは、竜《たつ》の都の乙姫《おとひめ》が、光氏《みつうじ》を慕って河に現じたり。また清姫《きよひめ》が日高川《ひだかがわ》へ飛びこんで、安珍《あんちん》を追ったときはこんなものか、十七や十八で豪気なもの。
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と、合引橋《あいびきばし》の泳ぎ場《ば》で、新富町の寄席《よせ》、内川《うちかわ》亭にいる娘が泳いでいたのを、別品《べっぴ
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