代目|守田勘弥《もりたかんや》を、子供の時分からその道に暁通《ぎょうつう》するように育てた。
 その人が、演劇道に有名な守田勘弥という策士で、明治維新後の情勢を見て、帝都の中心地となる京橋へ劇場進出を目論《もくろ》んだ。元来木挽町は、以前の土地ではあるし、木挽町へ劇場を建てようという運動は、それよりも一足さきに、これもおなじ土地にあった河原崎座《かわらざきざ》が采女《うねめ》が原《はら》へ新築許可を願い出ていた。これはたぶん、目下《いま》の歌舞伎座の辺《あたり》であったろう。――河原崎座主、河原崎|権之助《ごんのすけ》は、九世団十郎が、市川|宗家《そうけ》に復帰しない、養子にいっていた時の名――現今《いま》でもあのあたりは、歌舞伎座、東京劇場、新橋演舞場が鼎立《ていりつ》している。
 守田座移転は明治四年だというが、新富町新富座という、堂々たるものになったのは、九年|霜月末《しもつきすえ》に焼けてから再築し、十一年春に、西南戦争を上演して大入《おおいり》をとってからだ。
 明治十年の西南戦争は、明治政府の功臣たちの間の争いであり、兵の組織も新式になってからであるから、薩南《さつなん》の地であったとはいえ、朝野《ちょうや》を挙げて関心をもっていた。西郷隆盛《さいごうたかもり》は、江戸人が恩人として尊敬し、愛していた大人物だった。その人の最後を知ろうとするものが殺到したのだから、大入りだったわけだ。しかも、この戦争劇が、守田勘弥を上流人に接近させる便宜を得させたのだった。
 芝居人と紳士、学者との交際が対等になった。それは明治の諸政一新という御思召《おぼしめし》により、四民平等の恩典に浴したためではあるが、西南戦争劇上演のために、薩南の事情を明らかにするには、当時の顕官に接近せざるを得ない。もとよりその機を望んでいた勘弥が、取り逃すようなことはしない。新富座主の豪遊する、木挽町の待合《まちあい》は、明治顕官の遊ぶところで、当時の待合のおかみ、芸妓《げいしゃ》たちは、お客の顕官を友達のように思っていたりするので、勘弥とその人たちを結びつかせた。
 時は、洋行帰りの新人や、学者たちの間に、丁度演劇改良熱の勃興《ぼっこう》しつつあったおりで、勘弥はその機運をいちはやくも掴《つか》んだのだ。で、新富座本建築のときは、四十二軒あった附属茶屋を、大《おお》茶屋の十六軒だけ残して、あ
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