板の看板だけにしたというが――
 芝居の裏通りや附近には、有名な役者たちが住み、音曲《おんぎょく》の方の人たちも、その一角のなかかその近間《ちかま》にいた。櫓下芸妓《やぐらしたげいしゃ》もあるといったふうで、四囲の雰囲気は、すべてが歌舞伎国領土であった。
 新島原という名は、京都で有名な、島原遊廓から来たものであったろう。あまり短命だったので、知れていないが、明治二年に、あの土地へ遊廓が許されて、新島原が出来かかったのだが、次の年の秋に大暴風雨があって、中万字《なかまんじ》という妓楼が吹き倒され、遊女が八人も怪我《けが》をしたので、遊廓の未完成のまま立退《たちの》きを命じられた。
 新富座の前名の守田座は、その島原へ建った。もともと、遊廓と芝居は離れない因縁をもっていて――歌舞伎の創業時代に遊女が小屋がけをしたことなどをいっていると、それだけでも長くなるが――江戸開府のころ、日本橋区人形町附近の、葭《よし》の生《は》えているような土地を埋めたてたりして、葭原《よしわら》という廓《くるわ》が出来、住吉町《すみよしちょう》、浪花町《なにわちょう》などと、出身地の地名をかたどった盛り場となり、その近くへ芝居小屋が建築されたそれが、いわゆる三座と称せられた江戸|大劇場《しばい》の濫觴《らんしょう》で(中村座、市村座、山村座。そのうち山村座は、奥女中|江島《えしま》と、俳優|生島新五郎《いくしましんごろう》のことで取りつぶされた)、堺町《さかいちょう》、葺屋町《ふきやちょう》にあった。大火後、遊廓は浅草|田圃《たんぼ》へ移され、新吉原となり、芝居だけ元の土地に残っていたが、ずっと下《くだ》って天保《てんぽう》十三年に、勤倹令を布《し》いた幕府の老中、水野|越前守《えちぜんのかみ》が、中央に芝居小屋などのあるのはもってのほかのこと、御趣意に反《そむ》くというわけで、浅草|猿若町《さるわかちょう》へ転地させられた。
 そのころ、京橋|木挽町《こびきちょう》にあった守田座が、猿若町に立並んで三座となったが、この、守田座は、委《くわ》しくいえば、もとから、芝居は四座あって、守田座だけが別の土地に離れていたので、これも古い名ではあるが、十一代目を継いだ――下総《しもうさ》あたりのお百姓から出て、中村|翫右衛門《がんえもん》と名のった、あまり上手でない役者が座元の養子になり、その子の十二
前へ 次へ
全32ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング