糸繰沼
長谷川時雨

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)青森《あおもり》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)気味|悪《わ》るがり

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)おや[#「おや」に傍点]
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 湖、青森《あおもり》あたりだとききました、越中《えっちゅう》から出る薬売りが、蓴菜《じゅんさい》が一《いっ》ぱい浮いて、まっ蒼《さお》に水銹《みずさび》の深い湖のほとりで午寐《ひるね》をしていると、急に水の中へ沈んでゆくような心地《こころもち》がしだしたので、変だと思っていると、何処《どこ》でか幽《かす》かに糸車《いとぐるま》を廻す音がきこえたともうします。おや[#「おや」に傍点]と気をつけると、暗いところがほんのり明《あか》るくなって、自分は沈みもしなければ浮上《うきあが》りもしないで、水の中にふっと止まっている。向うを見ると、薄《う》っすらと人陰《ひとかげ》が見えて、糸を繰《く》る音がする。心を定めてよく見直すと、品の好《よ》い老女《としより》で、糸を繰る手はやめなかったが、振返《ふりかえ》って薬売りを流し眼に見て「返してやるのではないが、お前に言便次《ことづけ》をしてもらいたいから、助けてあげる。」と言って「奥州閉伊郡《おうしゅうへいごおり》の中妻《なかづま》の里というところに、こういう家《うち》があるからその家《うち》へ行って、おばあさんは此処《ここ》にこうやっていると伝えてくれ。」と頼まれたかと思うと、おばあさんの姿も、糸車の音も消えて、薬売りは人の助けに生返《いきかえ》ったのでした。無言《だま》っていろと口をかためられたのですから、薬売りは一人で気味|悪《わ》るがりながら、その家《うち》が誠《まこと》にはないようと祈ったり、そんな馬鹿馬鹿《ばかばか》しいことがありようはないと思ったりして、それでも「池の主《ぬし》になっているから、姿をかくしたが安心してくれ。」という伝言《ことづけ》をせねば、自分の重い役が一生とれぬ心地《こころもち》もするので、てくてく[#「てくてく」に傍点]中妻の里を忘れもせずに商業《しょうばい》しながら探ねてあるくと、或《ある》日言われた通りの、門構えの家《うち》を探ねあてたのでした。薬売りは顫《ふる》えあがったそうで、兎《と》に角《かく》主人にあって、その顛末《て
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