ど、嵩高《かさだか》な桑の葉を運ぶのだつた。
朝露《あさつゆ》のあるころは、まだしも見た目に、青さが凉しげで、勞働《はたらき》のいさぎよさと健康が羨ましくもあるが、日中の桑畑のいきれ[#「いきれ」に傍点]は、風など通しはしなかつた。上からは照りつけ、山畑に水などは一滴もない、見渡すかぎり日影もない桑畑だつた。汗もしどろに、摘みためたのをすぐ運んでゆくのだつた。炎天の路《みち》をゆくのだつた。
夕暮の野路でも、彼女たちは勞《つか》れきつて、默々と、まだ夜露にしめらない、土埃りのたつ道路《みち》を、まつ黒い影で二三人づつ歩いてゆくのだつた。
それは、家の中を風が吹きぬく、影の多い、小暗いほどの土間に、摘んだばかりの桑の葉が、青々と、籠のまま、もしくは莚《むしろ》にあけられてあるのを見た。俳畫にでもありさうな田園の風情とは、まつたく別ものの、生きた如實の生活の姿だつた。私たち明治期の、都會生れのものが、風俗畫からやしなはれて來た常識――茶舖《ちやほ》でもらふ、茶摘み風景をゑがいた團扇や、海苔やの、海苔そだに小舟をあしらつたり、干し場の景色には、富士山が遠く紫ばんで見えたりするのや、うつくしげな養蠶風俗などとは、似てもにつかない生計《たつき》の業《わざ》であつた。糸をとるにしても、製糸工場はしばらくおき、乏《とぼ》しい、かなしげな小屋で、老女《としより》が鍋で煮ながら繰出してゐるのを見ると、手の指はまつ白にうぢやぢや[#「うぢやぢや」に傍点]けてゐた。蠶時には、幼兒《こども》が軒下で寢てゐるやうな家もあつた。家のなかは繭で何處もかも眞つ白だつた。人が從で、繭が主だつた。しかも、それほどの繭を積んで、よろこぶ筈の家の者の眉は曇つてゐた。繭商人《まゆあきんど》が秤をもつて、とても安い價を言つてゐるからだつた。
一反の着物のなかには、原料だけにさへ、それほどの勞苦が織込まれてゐるのだ。といつて、消費者がなければ、その生産によつて暮す人は、差當り困るわけだ。もとより國内の消費より、輸出が絹の價格の高低をなすのであらうが、それはそれとして、國産である絹を、貧富の別なく、體力のおとろへた老人に着せてやる工夫はないものであらうか。美術工藝としての發達や、服裝美の上からの建前《たてまへ》とは異つた方の見方からではあるが――
[#地から2字上げ](「新裝」昭和十年七月一日)
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