、本願寺はある折、疑獄事件があって、光瑞法主はそのために、責《せめ》をひいて隠退され、武子さんは、婦人会の存続について大変心配された。そんなことから、日常のことにも気をつけるようになられたのだろう。『無憂華《むゆうげ》』の中の、「父に別れるまで」の一節に、
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――今思うとこんなこともあった。そのころの道具|掛《がかり》の者が知らなかったのかどうか、割れなくていいというような意味から、金《かね》の水指《みずさし》を稽古《けいこ》用に出してくれたのが、数年のあとで名高い和蘭陀毛織《オランダモウル》の抱桶《だきおけ》であったことや、また幾千金にかえられた堆朱《ついしゅ》のくり盆に、接待|煎餅《せんべい》を盛って給仕《きゅうじ》が運んでおったのもその頃であった。
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そうした器物まで払いさげられたりして、経済のこともよくわかっていたのであろうし、それよりも、これはあとにもいうが、つまらないことで失いたくない、要用なことにと、いつも心に畳《たた》んでいられたのだと思う。
武子さんは、あまり広く愛されて、世間のつくった型へはめられてしまって、聖なる
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