徳川家康の寄進で、慶長七年に六町四方の寺地を七条に得、堂宇も起してもらったが、長子であって本山を追われたという苦い経験が、世々代々、長子伝燈の法則が厳しい。そこに、いかなる凡庸でも長子より法主なくということになり、見込みのある御連枝《ごれんし》(兄弟、近親)でも、御出世はないものと見られ、せめて子爵でなくとも、男爵ででもおありならと、武子さんの配偶が断られた訳もそこにある。三百年間親戚としての往来はおろか、敵視状態だったのが、明治元年に絶交を解いて、交際が復活したからとて、両方の法主――光尊、光瑩の両裏方を、お互いに養女としあって、戸籍上の姻戚関係をむすんだといっても、お宝《たから》娘の武子さんを、となると、惜んだもののあったのも、わからなくもない。
本願寺さんのお姫《ひい》さんは、本願寺さんのでおきたいと、京都の人たちは惜んでいるというのも、いつまでもあの麗人がお独身《ひとりみ》でと、案じているというのも、結びあわせてみると、卑俗な言いかただが、西から東へ人気が移る憂いは充分ある。お西さんからお東さんへ、掌《て》のなかの玉をさらわれるふうに考えたものもなくはあるまい。
なんと、因
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