武子さんはなみなみの小さい器ではない。
しかし、愛された父法主は逝《ゆ》き、新門跡は印度にいてまだ帰らず、ここで、木のぼりをしても叱られないでお猿《さる》さんと愛称された愛娘《まなむすめ》に、目に見えない生活の一転期があったことを、見逃《みのが》せない。それは、新門跡夫人の父君、九条|道孝《みちたか》公が、家扶《かふ》をつれて急いで東京から来着し、主《おも》な役僧一同へ、
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――かねて双方の間に約束いたしおきたることは、もし当山に万一の事ありし時は、速《すみや》かに私が罷《まか》り出て、精々《せいぜい》御助力いたすべく――
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これはみな、前記山中氏の著書のなかにあるから、信頼してよいものと思う。こうなると、前法主お裏方《うらかた》の勢力も、お生母《はら》さんのお藤の方もなにもない、お裏方よりは愛妾《おめかけ》お藤の方のほうが、実はすべてをやっていたのだというが、もはや新門跡夫人の内房《ないぼう》でなければならない。と、同時に、武子さんの位置もおなじお姫さまでも、かわったといわなければならない。
十八、十九、二十と、山中氏の著書の中にも、美しき姫の御縁談御縁談と、ところどころに書いてあるが、武子姫の御縁談のことを、重だってお考えになる方は、お姉君の籌子《かずこ》夫人が、その任に当られるようになりましたとある。本願寺重職の人々が、それぞれ控えていまして、その人々の意見もあり、籌子夫人お一方のお考えどおりには、捗行《はかゆ》かぬ煩らわしい関係になっているのでした、ともある。
その一節を引くと、
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二十の春を迎え給《たま》いし姫君、まして、世の人々が讃美の思いを集めています武子姫の御縁談につきまして、本願寺の人々が、今は真剣に考慮するようになりました。
「たあさまは、二十にお成りあそばしたのだから」
「しかし、それについて、御法主《ごほっす》は何とも仰せがないから[#「何とも仰せがないから」に傍点]、まことに困る。」
「我れ我れから伺ってみようではないか」
と、室内部長とか、執行部長とか、本願寺内閣の要職にある人々が、鏡如様(光瑞師)の御意見を、伺い出ますと、
「お前たちが選考して好《よろ》しい。己《おれ》には今、これという心当りがない」と、一任するという意味でした。(註『九条武子夫人』、一四九頁)
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それよりさきに、若き新門様光瑞師は、外国にいたときに、愛妹武子さんの将来を托す人をたった一人選みだしたのだった。よき伴侶《はんりょ》と見きわめ、妹を貰《もら》ってくれといったのだというふうに、わたしはきいている。私は一連枝《いちれんし》にすぎないからと、先方は一応辞退されたのを、人物を見込んで言いだした人は、地位などで選みはしなかったのだから、二人だけの約束は結ばれた。帰朝すると、夫人にもその事は話され、武子さんもきいて、その人も帰ると表向きの訪問が許され、内園を、連れ立っての散歩も楽しげだったというのに、それはどうして破れたのか――
その間《かん》の消息は、山中氏の著書ばかり引くようだが、
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あらためて申すまでもなく、才貌《さいぼう》ともにお麗《うるわ》しく気高い武子姫に、御縁談の申込みは、すでに方々から集まっていました。中にも、先ず指を折られるのは、東本願寺の連枝(法主の親戚《しんせき》)の方でした。(中略)東本願寺の連枝へ、武子姫が入輿されますと、両家の間はいよいよ親密に結ばれることになるのでした。しかしながら、西本願寺の重職の人々にしてみますと、法主の妹君として、まして世に稀《ま》れなる才能と、比《たぐ》いなき麗貌《れいぼう》の武子姫が、世間的に地位なく才腕なき普通の連枝へ、御縁づきになる事は、法主鏡如様の権威に関《かか》わり、なお自分たち一同の私情よりしても、堪えられないことに思われるのでした。――
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おお! まあ、そんなことで否決して、会議は幾度も繰りかえされたのだ。
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「明如《みょうにょ》様(光尊師)が御在世ならば、御一存ですぐ決まるのだけれど……」
「――たあさまが家格の低い所へ御縁づきというのでは、我れ我れが申訳《もうしわ》けないことになる。」
「それは無論、御在世ならば、先方の人物本位にと仰せられるに相違はない。」
「いや、しかし、子爵以下では、何とも当家の権威に係《かかわ》る」――(『古林の新芽』、一五二頁)
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おお! まあ、なんと、そんなことで、華族名鑑をもってきても、選考難に苦しんだとは――
ここで、前記の、
「お前たちが選考してよろしい、己には今、これという心当りがない。」
という光瑞師のいったことが、まこと
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