い》が急に重《おも》って、それとなく人々が別れを告げに集《あつま》るとき、その人も病院を訪れたというが、武子さんは逢《あ》わなかったのだった。お別れはもう先日ので済んでおりますと、伝えさせたという。
私が、戯曲的に考えれば、生母の円明院《えんみょういん》お藤の方が、手首にかけた水晶の数珠《じゅず》を、武子さんが見て、
おかあさま、そのお数珠を、私の手にかけてください。
といわれたということが、新聞にも出ていたが、その水晶の数珠は、かつて、武子さんが、御生母へあげたものだということから、その数珠には、母子だけしか知らない温かい情《もの》が籠《こも》っているかもしれないと、思うことだった。
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君にききし勝鬘経《しょうまんぎょう》のものがたりことばことばに光りありしか
君をのみかなしき人とおもはじな秋風ものをわれに告げこし
この日ごろくしき鏡を二ツもてばまさやかに物をうつし合ふなり
[#ここで字下げ終わり]
勝鬘経は、印度|舎衛《しゃえ》国王|波斯匿《はしのく》と、摩利夫人《まりぶにん》との間に生れて、阿踰闍《あゆしゃ》国王に嫁した勝鬘|夫人《ぶにん》が仏教に帰依《きえ》した、その説示だという、最も大乗《だいじょう》の尊さを説いたもので、わが聖徳太子も、推古《すいこ》女帝に講したまいし御経《おんきょう》ときいたが、君とは、父法主《ほっす》でも、兄法主でもない人を指している。
築地《つきじ》別院に遺骸《いがい》が安置され、お葬儀の前に、名残《なご》りをおしむものに、芳貌《ほうぼう》をおがむことを許された。
二月八日の宵《よい》だった。梅の花がしきりに匂《にお》っていた。わたしは心ばかりの香《こう》を焚《た》いて、「秋の夜」と署名した武子さんからの手紙を出して、机上においた。そこへ、安成二郎《やすなりじろう》さんが訪れられて、どうしてお別れにいって来ないのかといわれた。蘭燈《ぼんぼり》にてらされて、長い廊下を歩いていって、静《しずか》な、清らかな美しいお顔を見ると、全くこの世の人ではない気がしたといわれた。そして、どうしてゆかないのかと、再び問われた。
あまり多くのものに、死者の顔を見せるのは嫌いだから、見られるのはお厭《いや》だろうと思うと、答えたわたしの胸には、ちょっと言いあらわせないものが走った。
震災|前《ぜん》、あの別院が焼けない前に、ある日の日かげを踏んで、足|許《もと》にあつまる鳩《はと》を避《よ》けて歩きながら、武子さんに、ずっと裏の方の座敷で逢ったことがあった。その時ふと胸にきたものは、あんなに麗《うらら》かな面《おも》ばせで、れいれいとした声で話されるに、憂苦《ゆうく》といおうか、何かしら、話してしまいたいといったようなものを持っていられるということだった。
その時、
「※[#「火+華」、第3水準1−87−62]《あき》さまは、どうしてあんなことをなすったのでしょうね。」
と、突然と武子さんがいった。それは、白蓮《びゃくれん》さんが失踪して間もなくで、世上の悪評の的になっているときだった。
二人は目を見合わせたきりで、探りあう気持ちだった。この人は、もっともっと大きい苦悶《くもん》をかくしているなと、思った。
震災に、なんにも持たずに逃《のが》れ出たが、一束《ひとたば》の手紙だけは――後に焼きすてたというが、――あの中で、おとしたらばと胸をおさえて語ったお友達がある。――そういえば、秋の夜であり、きくであり、そのほかにも、種々のかえ名があるにはあったが――
武子さんは、もうちゃんと、ああ出来上ってしまって、あれがいいのだから、美人伝へよけいな感想なんか書いてはいけないと。知っている人たちがみんなこういう。もとより、武子さんはわたしも大事にする。けれど、もっと大胆に、いいところをいってもいい、人間らしいところを話《はなし》ても、あの方の苦節に疵《きず》はつきはしない。お人形さんに、あの晩年の、目覚《めざ》めてきた働きは出来ない。本願寺という組織に操《あやつ》られてでも、それを承知で、自分自身だけの、一ぱいの働きをするということは、ああいう場処にいる人には、あれでよいので、あらゆる事に働き出そうとしたことは、劇や舞踊の方にまで進んで、かなり一ぱいの努力だったと思う。
そういえば、武子さんは快活な、さばけたところのあるのは、幼いときからだというが、人徳を知るのに面白い逸話がある。ある美術家のうちの床《とこ》の間《ま》に、ブロンズのドラ猫があった。埃《ほこ》りまみれでよごれているのを、武子さんは猫が好きだったが、震災で焼いてしまったので、その埃りまみれの置物を、かあいい、かあいいと撫《な》で廻していた。その事を、あとで、猫を作った某氏にその人が話して、君が逢えばきっと猫を
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