[#ここから4字下げ]
たまゆらに家を離れてわれひとり旅に出でむと思ふときあり
たたかへとあたへられたる運命かあきらめよてふ業因《ごういん》かこれ
うつくしき人のさだめに黒き影まつはるものかかなし女《おみな》は
そのことがいかに悲しき糸口と知らで手とりぬ夢のまどはし
まざまざとうつつのわれに立ちかへり命いとしむ青空のもと
しかはあれど思ひあまりて往《ゆ》きゆかばおのがゆくべき道あらむかな
何気なく書きつけし日の消息がかばかり今日のわれを責むるや
酔ざめの寂しき悔は知らざれど似たる心と告げまほしけれ
[#ここから2字下げ]
こういう寂しい心境をうたった歌を読んで、その人がもうこの世にないということを考えると、人生、一路の旅の、果敢《はか》なさを思わずにはいられなかった。――『白孔雀』から――
[#ここで字下げ終わり]
吉井さんにしても、※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子《あきこ》さんにしても、人世の桎梏《しっこく》の道を切開《きりひら》いて、血みどろになってこられたかたたちだ、その人の心眼に何がうつったか? ただ、寂しい心情とのみはいいきれないものではなかったろうか。白蓮さんの感想には、書かれない文字や、行間に、言いたいものがいっぱいにある気がする。遠慮、遠慮、遠慮! 昔だったらわたしなど、下々《げげ》ものがこんなことを言ったら、慮外《りょがい》ものと、ポンとやられてしまうのであろうが、みんなが武子さんを愛《いと》しむ愛しみかたがわたしにはものたらない。こんな、生きた人間を、なんだって小さな枠《わく》に入れてしまうのだろう。
――いや、武子さんは、御自分のしていることがお好きなのでした。御満足だったのです。一番好きなことをしていたのです。
こういった中年男は、良致さんが大好きで、男は何をしても、細君はいとまめやかに、愛らしくという立場だから、失礼なことをいうのも仕方がない。どんな売女でももっている、女っぽさや、女の純なものがないの、けちんぼだの、勘定《かんじょう》が細かいのといった。わたしはそれに答えてはこういう。
武子さんは、「女」を見せることを、きらったのだ、誰にも見られたくなかったのだ。わざとする媚態《びたい》があるというが、それは、多くのものに、よろこばせたい優しみを、とる方がそうとりちがえたのではないか。算当《さんとう》が細かいというのは、本願寺はある折、疑獄事件があって、光瑞法主はそのために、責《せめ》をひいて隠退され、武子さんは、婦人会の存続について大変心配された。そんなことから、日常のことにも気をつけるようになられたのだろう。『無憂華《むゆうげ》』の中の、「父に別れるまで」の一節に、
[#ここから2字下げ]
――今思うとこんなこともあった。そのころの道具|掛《がかり》の者が知らなかったのかどうか、割れなくていいというような意味から、金《かね》の水指《みずさし》を稽古《けいこ》用に出してくれたのが、数年のあとで名高い和蘭陀毛織《オランダモウル》の抱桶《だきおけ》であったことや、また幾千金にかえられた堆朱《ついしゅ》のくり盆に、接待|煎餅《せんべい》を盛って給仕《きゅうじ》が運んでおったのもその頃であった。
[#ここで字下げ終わり]
そうした器物まで払いさげられたりして、経済のこともよくわかっていたのであろうし、それよりも、これはあとにもいうが、つまらないことで失いたくない、要用なことにと、いつも心に畳《たた》んでいられたのだと思う。
武子さんは、あまり広く愛されて、世間のつくった型へはめられてしまって、聖なる女として、苦しんだ。その切《せつ》ないなかに生きぬいて、自分の苦しんだのとは、違う苦しみかたをしている気の毒な層の人たちを、広く愛そうとする、真に、しっかりした心の転換期がきたのではあるまいか。二十年、恋は空《むな》しいと観じ、本願寺婦人会の救済事業を通じて、心身を投じようとしたその時に、あわれ死がむかって来たのではあるまいか――
おせっかいな世間は、武子さんが完全な人となろう、としているときに――外国にいる人も、そちらにいる方が家庭円満であったかもしれないのに、麗人に空閨《くうけい》を十年守らせるとは何事だと、あちらで職について、帰りたがらぬ良致氏を無理に東京へ転任ということにしたということだが、十年ぶりで、帰る人にも悩みは多かったであろうし、武子さんは、まぶたもはれあがるほど泣きに泣いて、こころをつくろう人世へのお化粧をしなおされたいうことだ。
死ぬる日の半月ばかり前に、偶然に行きあったのは、かの、かりそめの別れとすかされて、おとなしく頷《うな》ずいて別れた東の御連枝《ごれんし》だった。だが、今度はかりそめの、この世での、それが長い別れになってしまった。おもいがけない病《やま
前へ
次へ
全11ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング