さま》しき末世とさえおもわれたのだ。
 武子さんはそうした家柄の、本派本願寺二十一代|法主明如上人《ほっすみょうにょしょうにん》(大谷|光尊《こうそん》)の二女に生れ、長兄には、英傑とよばれた光瑞《こうずい》氏がある。
 で、また、ここに、他の宗教家と著しく違うところに、親鸞聖人の妻帯は、必死の苦悩を乗りこした浄土であったのだが、いつからのことか、このお寺だけはお妾《めかけ》のあることがなんでもないことになっていて、お生母《はら》さんというものがあることなのだ。姻戚《いんせき》関係もおおっぴらで、もっとも縁の深いのが九条家で、月《つき》の輪《わ》関白兼実《かんぱくかねざね》の娘|玉日姫《たまひひめ》と宗祖の結婚がはじまりで、しかも宗祖は関白の弟、天台座主《てんだいざす》慈円の法弟であったのだから関係は古い。ごく近くでは、光瑞氏夫人が九条家から十一歳の時に輿入《こしい》っているし、光瑞師の弟光明師には、夫人の妹が嫁《とつ》がれている。重縁ともなにとも、感情がこぐらかったら、なかなか面倒そうだ。
 山中峯太郎氏著、『九条武子夫人』を見ると、父君光尊師は幼いころから武子さんを愛され、伏見桃山の麓《ふもと》の別荘、三夜荘《さんやそう》にいるころは、御門跡《ごもんぜき》さまとお姫《ひい》さまのお琴がはじまったと、近所のものが外へ出てきたりしたという。武子さんの文藻《ぶんそう》はそうしてはぐくまれたというが、この父君の雄偉な性格は、長兄光瑞師と、武子さんがうけついでいるといわれているそうで、武子さんは暹羅《シャム》の皇太子に入輿《にゅうよ》の儀が会議され――明治の初期に、日支親善のため、東本願寺の光瑩《こうけい》上人の姉妹《はらから》が、清《しん》帝との縁組の交渉は内々進んでいたのに沙汰《さた》やみになったが――武子さんのは、十七の一月三日、暹羅《シヤム》皇太子が西本願寺を訪問され、武子さんも拝謁されたが、病いをおして歓迎、法要をつとめ、その縁談に進んで同意だった、父|法主《ほっす》が急に重態となり遷化《せんげ》されたので、そのままになってしまったという、東本願寺の元老、石川|舜台《しゅんたい》師の懐旧談がある。――兄光瑞師――新門《しんもん》様――法主の後嗣《あとつぎ》者が革命児で、廿二、三歳で、南洋や、西蔵《チベット》へいっていることを見ても、その人たちと似た気性といえば、
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