能とが一つになって、注目される婦人となった。武子さんはいよいよ光り、良致さんはよく言われなかった。
空閨《くうけい》を守らせるとは怪《け》しからん。と、よく中年の男たちが言っていた。操持《そうじ》高き美しき人として、細川お玉夫人のガラシャ姫よりももっと伝説の人に、自分たちの満足するまで造りあげようとした。
この間《あいだ》も、斎藤茂吉《さいとうもきち》博士の随筆中に、武子夫人が生《いき》ていられたうちは書かなかったがと、ある田舎《いなか》へいったら、砂にとった武子さんのはいせき物《ぶつ》を見て、ふといふといと下男たちが笑っていたということを記《しる》されたが、そんなばかげた事もおこるほど、よってたかって窮屈な型のなかへ押込んでいった。
三
武子さんの第一歌集『金鈴《きんれい》』を、手許においたのだが、ふととり失なってしまって、今、覚えているのは、思いだすものよりしかないが、
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ゆふがすみ西の山の端《は》つつむ頃ひとりの吾《われ》は悲しかりけり
見渡せば西も東も霞《かす》むなり君はかへらず又春や来《こ》し
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作歌の年代を知るよしもないが、これらはずっと古くうたわれたものときいている。一年半以上も外国でくらして、秋も深くなって帰ると翌年の春、籌子夫人が急逝された。その人の望みによって武子さんの生涯は定まってしまったのに、それを望んだ人は死んでしまって、妻という名の、桎梏《しっこく》の枷《かせ》をはめられて残された武子さんの感慨は無量であったろう。全く運命というものは変なものだ。
しかし、おかくれ遊ばした総裁様の御遺志をお伝えするが使命と、武子さんのうるわしい声が、各地巡回宣伝にまわられると、仏教婦人会の新会員は増えてゆくばかりなので、九条武子となっても、本願寺に起臥《おきふし》して、昔にもまさって本願寺の大切な人であった。そして、思い出したように、お美しい方が空閨に泣くとは、なぞと、時々書いたりいわれたりしたが、武子さんの場合だけは、それが不自然ではなく、なんとなくそれで好《い》いような気がしていた。語らざる了解があるように思われた。そうしているほうが、お互が気楽なのではないかと思えた。
遺稿和歌集の『白孔雀《しろくじゃく》』をとって見ると、
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百人《ももたり》のわれにそし
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